「雨音に消えた言葉」
静かな雨が、アスファルトを打ち続けている。しとしとと降るその雨の音が、まるで過去の記憶を呼び覚ますかのように、**桐谷真奈(きりたに まな)**の心を揺さぶっていた。
「これで良かったのかな…」
真奈はふと、ひとりごちた。目の前にあるのは、駅前の小さなカフェ。彼との思い出が染みついた場所だ。**田中悠人(たなか ゆうと)**と過ごした何気ない時間が、まるで昨日のことのように蘇る。
彼と初めて出会ったのは、今から3年前の春のことだった。当時、真奈は大学の卒業を控え、就職活動に追われていた。慌ただしい日々の中、ひとときの安らぎを求めてこのカフェを訪れたとき、悠人もまた同じテーブルでコーヒーを飲んでいた。
「ここ、座ってもいいですか?」
カフェが混み合っていたその日、真奈は隣に座ることを許してもらい、二人は自然と話し始めた。彼は少し年上で、すでに働いている会社員だった。共通の趣味や映画の話で意気投合し、気がつけば、毎週このカフェで会うことが当たり前になっていた。
それから1年後、二人は恋人同士になった。
悠人は真奈にとって、特別な存在だった。彼の穏やかで落ち着いた性格が、彼女の不安定な気持ちをいつも癒してくれた。忙しい日々の中で、お互いに支え合いながら、未来への希望を語り合った。
「いつか、二人で旅行に行こう。ヨーロッパとか、広い世界を見てみたいね。」
「いいね、絶対に行こうね。」
彼との未来を信じて疑わなかった。それが、ほんの数か月前までは当たり前だった。
しかし、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。
2か月前――
悠人が突然、会社の転勤を告げた。新しい勤務地は海外だった。彼は、自分のキャリアを大切にしており、真奈もその気持ちを理解していた。だからこそ、彼がこのチャンスを逃さないようにと応援していた。
「行っておいで、私、待ってるから。」
そう言ったのは真奈だった。彼女は心からそう思っていたし、彼を縛りつけたくなかった。遠距離恋愛が始まることに不安を感じていたが、二人なら乗り越えられると思っていた。
しかし、現実は想像以上に厳しかった。悠人は新しい環境で忙しくなり、連絡の頻度が減っていった。時差や仕事のプレッシャーに追われ、いつしか彼との会話は短く、形式的なものになっていった。
「ごめん、忙しくて今週は話せなかった。また来週に連絡するね。」
そんな言葉が何度も続くうちに、真奈は少しずつ孤独を感じるようになった。
そして、ついに1週間前、悠人から別れのメッセージが届いた。
「真奈、ごめん。君を待たせることがこれ以上できない。僕は新しい環境に集中したいし、君を不安にさせるのが辛いんだ。」
その言葉を読んだ瞬間、真奈の心は沈んだ。彼の気持ちを理解しようと努力したが、どうしても割り切れない感情が胸の中で膨らんでいった。彼がいなくなる未来が、耐えられなかったのだ。
彼に「別れたくない」と返信することもできたはずだった。しかし、真奈はそれをしなかった。彼の選んだ道を尊重することが、愛する人への最後の優しさだと思ったからだ。
そして現在、真奈は再びあのカフェにいた。
あの日の記憶を振り返りながら、彼との時間が本当に終わってしまったことを、ようやく受け入れ始めていた。コーヒーカップを手に取り、ゆっくりと息を吐く。
「もう終わったんだね…」
そう呟くと、ふと目の前のドアが開いた。
「真奈…?」
その声に振り返ると、そこには驚いた表情の悠人が立っていた。真奈は、信じられない思いで彼を見つめた。
「どうしてここに…」
「仕事で一時帰国していて、偶然このカフェに来たんだ。まさか君がいるなんて思わなかった…」
悠人も驚いているようだったが、その目には複雑な感情が浮かんでいた。
「元気だった?」
その言葉が、真奈の胸に突き刺さる。彼との再会は、嬉しいというよりも、どう対処していいのかわからない感情に押しつぶされそうだった。
「うん、なんとかね。」
短い返事を返したものの、心の中では多くの言葉が溢れていた。どうしてあの時、彼を引き留められなかったのか。どうして連絡を絶たれてしまったのか。けれど、その答えを今さら求めても仕方がないことは、真奈自身がよくわかっていた。
二人は、少しぎこちなく会話を交わした。最近の仕事のこと、そして彼がこれから再び海外に戻ること。全てが淡々とした内容だったが、彼の存在そのものが真奈にとっては感情を揺さぶるものでしかなかった。
「真奈、あの時は本当にごめん。」
突然、悠人が真剣な表情で言った。
「君を置いていく形になって、本当に申し訳なかった。でも、あの時、僕にはどうすることもできなかったんだ。君に辛い思いをさせるのが怖かった。だから…逃げてしまったんだ。」
真奈はしばらく黙っていたが、ゆっくりと彼を見つめた。
「ううん、私も分かってたよ。お互いに遠く離れて、どうしても無理なことがあるって。でも、あの時のことをずっと引きずってた。あなたに何か言えば良かったのに、言えなかったんだ。」
その言葉に、悠人は静かに頷いた。
「でも、君が幸せならそれでいい。それだけが僕の願いなんだ。」
真奈はその言葉に、涙がこぼれそうになった。彼もまた、彼女のことを思ってくれていたのだ。しかし、もう戻ることはできない。そう感じていた。
「私も、あなたが幸せならそれでいいよ。」
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ静かに雨音を聞いていた。まるでその音が、過去の痛みを少しずつ洗い流していくようだった。
悠人はその後、再び海外へと旅立った。真奈もまた、彼との再会を胸に刻みながら、新しい日常を歩み始めた。過去の恋愛は確かに終わったが、それでもその経験が彼女にとって大切な思い出であることに変わりはない。
雨音に消えた言葉たちは、心の中に静かに残り続ける。そしていつか、二人がそれぞれの道を歩んで見つける新しい幸せが、雨上がりの空に輝く虹のように、二人を包み込んでくれるだろう。
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