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「タナカケイコ」とフラミンゴの大群

 タナカケイコは私の名だ。病院で「タナカケイコ」さんと呼ばれる。ほぼ無意識に「はい」と答える。住民票をとるとき、名前欄にタナカケイコと書く。図書館でも銀行でも郵便局でも百貨店でもレストランでもホストクラブでも私は「タナカケイコ」であり、誰もそれを疑う人はいない。
 ホストクラブの売れっ子はタケシくんという。本当の年齢は知らないけれど、おそらくまだ30はいっていない。背が高くて色白で神経質そうな尖った目をしたタケシくんに恋をしたのは私が40歳の時。タケシくんには年間500万を3年貢いだ。合計1500万の出費は正直私の実生活を破壊した。でも私はなにも後悔していない。私の1500万はタケシくんのでたらめさを助長しもともといい加減で軟弱なハートの持ち主であるタケシくんは私のせいでますますいい加減で軟弱な奴になったかもしれない。でもタケシくんのキスはタケシくんの弱さなんかよりずっと甘くて強くて刺激的なのだ。あの唇の味を私は誰にも譲りたくない。
 私は家で絵を描く仕事をしている。何を描くかは私の感覚が教えてくれる。この世界に感覚以外に信じられるものなんてあるのかしら。綺麗と綺麗じゃないものを区別するのは感覚でしかない。この世界は綺麗と綺麗じゃないものに上手に区分けできる。世界が複雑だなんて誰が言ったんだろう。こんなに単純なのに。最初に感覚で綺麗と綺麗じゃないものに分ける。すると実は綺麗は綺麗じゃないものすべてを含みますます綺麗になることがわかるから、結局、世界は綺麗という名のだだっ広い無限に過ぎない。
 インスピレーション通りに作品を仕上げる。たとえば赤いイメージを全体にひろげて、サングラスとタキシードが似合うタケシくんのことを考えながらカンバスに向かう。本当に好きな絵が描けたときは疲労困憊していることが多い。汗をかき、身体のいろんな部分の筋肉を使う。仕事中もはじめのうちはタケシくんの事ばかり考えている。タケシくんの後ろ姿を追いかけている。でもだんだんタケシくんから自由になり絵に没頭しはじめる。絵を描いているときは本当に夢中で前も後ろも右も左も何もない。そう。何もないのだ。私には本当に何もない。
 さっきから、朱色のフラミンゴの大群が描きたくて構図を考えている。画面全体を埋め尽くす朱色のフラミンゴ。フラミンゴに雌あるいは雄の区別はあるのだろうか?もちろんあるのだろう。けれど個人的には雄のフラミンゴにはあまり登場して欲しくない。雄のフラミンゴはけたたましい声でどうでもいいことをさも誇らしげに語り始めそうで好きになれない。フラミンゴの群れは水場にいる。水場では母親の象と子どもの象が長旅の疲れを癒している。南国風の樹木がひょいひょいと空間を埋めるように生い茂り、樹木のてっぺんで灰褐色の猿の夫婦が愛を確かめあっている。
 この構図の中心には人間の女がいる。裸で肌はとてつもなく透明でつるつるに輝いている。若い女だ。彼女は全身を両腕で抱きしめフラミンゴの大群に押しつぶされ息も絶え絶えにもがいている。眉間にしわを寄せている。両方の眉毛は太くたくましい。半分唇を開き、白い象牙の前歯を人差し指と中指の先端を強く嚙んでいる。黒色の髪は長く髪飾りの薔薇を一羽のフラミンゴが食べた。
 若い女に名前をつけた。「タナカケイコ」という。この「タナカケイコ」はけれど私ではない。この「タナカケイコ」はタナカケイコの象徴として描かれた偽のタナカケイコだ。けれど若い女はわたしよりずっと「タナカケイコ」に似ている。
 本物の「タナカケイコ」に会いたくてわたしはこの絵を考えたに違いない。わたしは「タナカケイコ」をまとった奇妙ででたらめな人間だ。そのでたらめさを誰より深く私自身が理解している。ああふたたび思い出してしまった。タケシくんだ。サングラスとタキシードが似合うタケシくんに会いたい。わたしのでたらめさをはるかに超えてでたらめなタケシくんに会いたい。タケシくんのことを考えるたびにわたしはどんどん傷ついてゆく。傷つくたびにわたしの描く絵は狂気を帯びて、その狂気をわたしはこの美しい世界に捧げたい。

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