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前島賢の本棚晒し【復刻版】01:上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』

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本記事は、電子書籍ストアeBookJapanに、連載「前島賢の本棚晒し」第29回として2015年2月20日に掲載されたものを、加筆修正の上再公開したものです。
記述は基本的に連載当時のもので、現在とは異なる場合がありますが、ご了承ください。
連載時に大変お世話になりました、そして、再公開を快諾頂きました株式会社イーブックイニシアティブジャパンの皆様に厚く御礼申し上げます。

 上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズが、ついに電子書籍化された(※掲載時)。
 1997年に第4回電撃ゲーム小説大賞(現・電撃大賞)を受賞して刊行された本作は、しばしば「ライトノベルを変えた作品」とも評価される。
 本作の登場から程なくして、ライトノベルの人気ジャンルは『ロードス島戦記』や『スレイヤーズ!』に代表される異世界ファンタジーから、現代ものへと移行していったのにくわえて、本シリーズの大ヒットは、後発のレーベルであった電撃文庫が、ライトノベルを代表するトップレーベルへと成長するための原動力ともなった。
 もし、この作品が電撃文庫から刊行されていなかったら、現在までのライトノベルの歴史は、大きく違ったものになっていたはずである。

 いや、しかし、そんな歴史など、実はどうでもいい。
 ――どうでもよくないが、本作の歴史的な位置づけやら何やらについては拙著『セカイ系とは何か』で論じたので是非、そっちで読んでいただきたい(ステマ)。
 とにかく、おまえの一番好きなライトノベルは何かと聞かれたら、評者は――、いや、今回に限っては、この一人称でいこう――僕は、迷わずこのシリーズを挙げる。ライトノベルなんて限定せずとも、世界で一番、好きな小説は、第一作目の『ブギーポップは笑わない』である。結局、ライトノベル・ライターなんてやっているのも、ひとりでも多くの方に本作を読んでほしいからだと言って過言でない。

 そんなわけで、本コーナーでは、この歴史的名作の電子書籍化を記念し、勝手に『ブギーポップ』大特集を行いたい。具体的には、今週と来週で初期5タイトル6冊を連続レビューしていく。

※以下、上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』の核心に触れます。

上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』

 記念すべき第一作にして、作家・上遠野浩平のデビュー作だ。
 だが、「ライトノベルの歴史を変えた作品」なんて言われるわりには、作中で起こること自体は、とても簡単な物語だ。学園に潜む人喰いの化物を、正義のヒーロー(ヒロイン?)のブギーポップが倒すという、実に単純な、よくある「学園異能」にすぎない。
 けれど本作のキモは、この物語を「ひょんなことから異能ヒロインと一緒に戦うことになった平凡な高校生」的な主人公を用意するのではなく、日常の裏側で行われる戦いを、ふとした偶然から垣間見た、「脇役」の視点から構成したところにある。

 たとえば、第一話「浪漫の騎士」の語り手は、高校三年生の竹田啓司。進学校にもかかわらず、デザイン事務所への就職を決めたことで、受験ムードのクラスから微妙に孤立しつつある。
 そんな彼の恋人、高校二年の宮下藤花が、突然、変なコスプレで、自分は世界の敵と戦う自動的な存在、ブギーポップだ――なんて言い出すところから、この物語は始まる。
 当然、竹田君には、(今風に言えば)彼女が突然、厨二病に罹患したようにしか見えない。

 この第一話は、独立した短篇として読んでも傑作だ。
 ひとりの少女が、自分の腕だけで生きていく道をあっさりと選んだ年上の恋人の姿に焦りをおぼえ、「自分は世界の敵と戦う存在だ」などと言い出す奇妙な心の病に罹患してしまう。けれど、周囲から孤立していた先輩にとって、彼女の別人格である「変身ヒーロー」は、学校で唯一、心を許せる相手となる……。少女の心の病が、ふたりの恋人が溝を埋めていく、風変わりな恋愛小説として、爽やかな余韻を残すものとなっている。

 ところが。ページを捲って続く「間奏」を読みはじめた読者は、彼女の妄想と思われた「世界の敵」「人を喰う者」が、現実に学園に潜んでいたことを知ることになるのだ……。

 そうはいっても、本作の視点人物に与えられるのは、「世界の敵」の実在を最後まで知らない竹田君をはじめ、あくまで物語の断片だけだ。だから「付き合っていた恋人がある日、突然いなくなってしまう」という形でしか、事件と関われない――事件が起きていたことさえ気づけなかった人物もいる。

 もちろん、こうした複数の視点から語られる物語――群像劇という構成は、けして珍しいものではない。ライトノベルでも成田良悟の『バッカーノ!』『デュラララ!!』が人気だし、ゲームでも「街 ~運命の交差点~」「428~封鎖された渋谷で~」などが有名だ。
 けれども、そのなかで本書が特異なのは、こうした断片的な構成が、バラバラのピースが組み合うパズル的な面白さを生み出す為ではなく、むしろ、思春期の少年少女達の切実な不安と焦燥感を描き出す為にこそ、用いられているところにある。

 ……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱していて、筋道がないように見えても、実際は実に単純な、よくある話にすぎないのだろう。
 でも、私たち一人ひとりの立場からその全貌が見えることはない。物語の登場人物は、自分の役割の外側をしることはできないのだ。

上遠野浩平『ブギーポップ笑わない』(電撃文庫)

正義は必ず最後に勝つのかも知れないが、普通の人間のわたしたちは別に最後まで生きていられるわけではないのだ。その前に殺人鬼の気まぐれで殺されてしまうかも知れないのだ。

上遠野浩平『ブギーポップ笑わない』(電撃文庫)

 本書の登場人物たちは、随所でこうしたモノローグを繰り返す。
 こうした不安は、読み手にとっても他人事ではないはずだ。少なくとも、僕にはそうだった。
「自分はもしかしたら特別な人間でもなんでもないのかもしれない」
「自分の人生は、何者にもなれないまま、平凡な脇役Aで終わってしまうのかもしれない」
 そんな恐怖を抱かない十代など、いやしないだろう。残念なことに、多くの場合、その不安は、ただの事実なわけだが、それを受け入れることができる若者が、どれだけいるだろう。
 本書刊行時に中学三年生だった僕には、無理だった。

 けれど……いや、だからこそと言うべきか、ライトノベルを読んでいる時だけは、そんな恐怖を忘れることができた。自由騎士として呪われた島を救い、ドラゴンも一撃の女魔導士として暴れ回った。
 ……せめて本を読んでいる間ぐらいそう思わせてくれなければ、一体、人間、どうやって地獄の十代を生き延びればいいのだ。はっきり言って暗黒時代だった中学時代を生き延びられたのは、ライトノベルのおかげであり、今でも感謝している。
 しかし、そうした苦しさを忘れる一時を与えてれるのとは別の仕方で……自分の中にある苦しさに寄り添うという別の形の救いを与えてくれたのが、本書であった。

 本書には、他のライトノベルのように、僕の恐怖を束の間、忘れさせてくれるような、特別な人間、選ばれた人間は――少なくとも、視点人物には――いなかった。
 けれどその代わり、彼ら彼女らは、僕と同じように、自分がこの世界における脇役なのではないか、と悩んでいた。
 この意味のわからない世界で、何時自分は、直下型地震に巻き込まれるか、カルト教団の毒ガステロに合うかと恐れる僕と同じように、物語の中の彼らも、猟奇殺人犯に狙われるか、人喰いに襲われるか、死神に殺されるかして、いつ何時、唐突に自分の物語が断ちきられるかもしれない、という恐怖を抱いていた。
 自分と同じ悩みを持った人間に会える――自分の不安を、恐怖を、小説のなかで明確に言葉にしてもらえるというのは、たとえその悩みや不安が解消されずとも、また別の形で、救いとなってくれることを、僕は知った。

 それにしても、本書がスゴいのは、群像劇でありながら――つまり、読み手を複数の視点を横断する特権的な立場に置きながら、最後まで視点人物と同じ目線で……つまり世界から半ば阻害された「脇役」のままで、小説を一冊読ませ切るところにある。
 どうしてそれが可能になっているかと言えば、複数の断片を組み合わせた一冊の物語もまた、断片に過ぎないという構造による。
 どういうことか。
 僕たち読み手は、竹田君と違い、学園に現に「世界の敵」が存在し、「人を喰」っていたことを知ることができる。けれどこの一冊の本を通じて読み手が得られる情報の総体は、物語に最も深く立ち入った視点人物が得られるものと、そう大差ないのである。
 確かに人喰いの化物がいて、そいつが事件の元凶で、そいつはブギーポップなる存在に倒された。
 けれども、その化物は一体、どこから来たのか、そしてそれと戦っていたブギーポップたちは一体、何者なのか? そうした世界観や設定は(少なくともこの第一巻においては)ほとんど、何も語られない。
 だから、本書で事件に巻き込まれた登場人物たちが、様々な謎を抱えたまま、それでも日常へと帰還し、不条理な出来事をなんとか自分なりに納得させて、みずからの人生を生き続けなければならないように、読者もまた、自分なりにおぼろげな世界観を想像しながら、本を閉じて現実に帰還するしかないのである。

 けれども本書の読後感は、しょせんおまえらは物語の全貌も世界の真実もわからないんだから、凡人は凡人らしく受験勉強でもしてレールの上を歩け。確率的に明日通り魔に会うかも知れないが諦めて死ね――的な、虚無的でシニカルなものではない。
 まったく逆だ。
 本書の登場人物は、自分たちが「何と戦っていたのか」「何に巻き込まれていたのか」を知ることはない脇役だ。けれど、それでも、本書のラストで読み手に示されるのは、そんな普通の脇役のひとりが、世界の真実も物語の全貌も知らないまま、けれども、小さな優しさによって知らぬ間に世界を救っていたのかもしれない、という可能性である。

 君達は確かに選ばれた人間でもないし、特別な人間でもない。
 そして世界はそんな脇役のことなどかまいもせずに、今日も動いていく。
 けれども、この世界を救うのは、実は選ばれた人間でも特別な人間でもない。
 ひとりひとりの脇役こそが、日常の中のほんの小さな優しさによって、自分でもそれと知らないまま、今日も世界を救っているのだ。
 ――これは、そういう物語だと思う。
 たとえ特別な人間ではなくても――いや、選ばれた人間でないからこそ、世界は救える。
 そういうメッセージを、受け取ったように思うのだ。

君のような人がいるから、世界はかろうじてマシなレベルを保っている。世界に変わって感謝するよ。

上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』(電撃文庫)

 物語の最後にブギーポップがひとりの普通の少女に向けて言ったセリフだ。
 中学生の僕は、いつかブギーポップが目の前に現れたとき、そう言ってもらえるような人間になりたいと思った。32歳の今も思っている。

 なんだか本連載中、屈指の青臭い文章になってしまった。
 これのどこが書評だ。
 ただの自分語りではないか。
 まったく、申し訳ない。
 ――ただ。
 言い訳させていただくと、人間誰しも、その物語について語ることが、そのまま自分を語ることに繋がってしまう、という本が、一冊ぐらいはあるはずなのである。僕にとっては、それがこの作品なのだ。すまない。次巻以降については、もう少し、冷静に語れると思う。

 では、次巻――「VSイマジネーター」にて。

※ヘッダーの画像は私の家宝、上遠野浩平先生サイン入り『ブギーポップは笑わない』初版(ボロボロですみません……)。
サインは、2004年に批評家・東浩紀主催のメールマガジン『波状言論』が行った上遠野浩平先生インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」収録にあたり、スタッフとして同席した際にいただいたものです。

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