百田夏菜子さん、結婚おめでとう

百田夏菜子さんが結婚した。かつて重度の百田夏菜子推しだった身として、心から祝福したい。その報せに「らしさ」を感じると同時に、いろんなことを思い出した。

もう10年以上も前になるが、大学を出てある場所で働き始めた。もともとは教授の紹介で在学中にインターン経由のアルバイトとして働かせてもらっていて、卒業後の4月からフルタイムで働くことになった。フルタイムとは聞いていたがサービス残業が240時間あり毎日殴られると思っていなかったのでびっくりした。実はあまりにも労働環境がブラック過ぎると、鬱だとか言っている暇が無い。15時間働いたあとに大阪から東京まで夜通し運転するみたいなことが続くと身の危険を凄まじく感じ、「思考」とかを止めて生命の保全に全神経を集中させ、あまり思い悩むことがない。人間にはそんな機能が備わっていることを学んだ。

3ヶ月経った頃、ボスの交通違反をなすりつけられそうになったので辞めた。それいけると思ったんか。とにかく、辞めてしまうと解放感はありながらあまりのハードワークの反動により1ヶ月ほど何もできず、ももクロの動画をみていた。弱っている時のアイドルソングは何とやらで、汗だくで踊る姿を見て毎日泣いていた。15万円くらいの給料から5万円くらいを何かしらの返済に充てた上でどう生活をしていたのか、無給の1ヶ月間をどう生き延びたのか今となっては分からないが、百田夏菜子のクリアファイルを手に入れるために買ったコンビニのお菓子を主食にしていたおぼろげな記憶はある。

その後、手当たり次第にバイトの面接を受け、居酒屋で働き始めた。就職という選択肢が浮かばないくらいには切羽詰まっていて、リーマンショックの絶望感に抗えなかったのかもしれない。どう考えてもアイドルの応援をしている場合ではないのに夢中になっていて、しかし、なかなかライブのチケットは取れなかった。

初めてライブに当選したのは紅白出場を誓うという主旨の大阪のイベントで、信じられないことに整理番号が1番だった。最前列中央で話題のえび反りジャンプを目の当たりにし、会場を出たあとすぐそばの川沿いでひとしきり泣いた。眩しい姿が、眩しすぎた。何がどう作用しているのかは分からないが、死んでいた感情に水が染み込んでいくような、栄養が行き渡るような感覚があった。その後も全身赤色に身を包んで何度もライブに臨み、気が付いたら居酒屋の店長になっていた。

ももクロ絵画コンクールというイベントもあった。イラストを送って、選ばれれば各都道府県の主要駅に張り出されるとかそんなイベントだったと思う。締め切りの前日、わけあって救急搬送された(別のアイドルのイベントで暴れて肺に穴が空いた)のだが、その時に付き添ってくれた友人にイラストデータの入ったUSBメモリを託し、これをコンクールに出してくれ……と言い残して意識を失った。友人はしっかりと応募してくれて、後日、参加賞として本人たちからのサインが届いた。

ももクロは紅白に行った。おれは、ももクロみたいなアイドルグループを作りたいと、小さな芸能プロダクションでマネージャー業に就いた。

結論から言えば夢破れ、4年ほどで芸能の世界を離れた。いろんな人に出会った。既に売れていた人にも、その後に売れていった人たちにもたくさん会った。今になっても、結局何をどうしていれば勝ち残れたのかは分からないが、手段を選ばず食い下がるしかなかったとは思う。それができなかった。表舞台に立たない裏方であったとはいえ、何も保証されていないなかで続けることは難しく、また一度飛躍してもそのまま飛び続けることは難しい世界だということはよく分かった。芯に強烈な熱意や矜持を保ち、上向いていく実感がなければ越えがたい領域があると思う。ただ続けていくのは怖い。そこで多くが振り払われていく。一部のトップスターを台風の目にし、そのエネルギーに巻き込まれ、弾き飛ばされる。そうしてブームというのは形成されているのだと、弾け飛ばされながら知った。そんな境遇の人間が多いことも、当の中心に居続けることの難しさや苦しさも容易に想像ができた。

もちろん、苦しいばかりではなかった。現場のどさ回りスタッフをしながら、作詞やデザインといった制作業務の多くにも携わらせてもらったから、産みの苦しみと楽しみを浴びるように味わった。

印象的な出来事が、ひとつある。

とある野外イベントで物販の受付をしていた時に、缶ビールを片手にふらりと立ち寄った男性がいた。初めてであろうが、特に何を買うでもなく、いくつか他愛無い質問をして去っていった。その後単独のイベントでも何度か見かけるようになり、ライブを見て気に入ってくれたのだと分かった。

そのうち物販のスタッフをしている男が作詞をしていることを知ったようで、ある時声をかけてくれた。初めてライブを見た頃は死のうと思っていたこと、酒を飲みながら立ち寄った野外イベントでパフォーマンスを見てその気が失せたこと、その曲の歌詞を気に入っていることを話してくれた。「あんたは命の恩人なんだ」と。

大仰な、と思うと同時に、それは自分が何もできなかった時にももクロを見ていた、あの感情だとわかった。といっても自分が何かを作ってもたらしたという感覚は全くなく、ただただアイドルという媒体にどれほど力があるのかということを、時間を経て、立場を変えて、思い知った。それを伝達する仕事をしていたのだと、その時に気づいた。

多くの人たちに長年救いをもたらし、つまり世の中をたしかに平和に近づける仕事をした二人が、自分たちの幸福の報せにまず世界の平和に触れていることは、単純な美辞麗句ではないと信じられる。少なからず一個人としての犠牲を払いながら立ってきた場所からの、きっと心からの大きな祈りだ。それを感じられるありがたい報せだった。

どうか、二人の時間が二人にとって幸福なものであり続けますように。

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