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負け犬【つ:つぎ込む】

つぎ‐こ・む【▽注ぎ込む】 
[動マ五(四)]
1 液体を器の中へつぎ入れる。そそぎこむ。「タンクに水を―・む」
2 ギャンブルに溺れて救いようの無い者が発する言葉



「なあ!頼む!絶対に返すから、100%勝てるレースがあるんだよ。」

智也は額を掌に擦り付けるようにして私を拝む。

「なあ、いいだろ、またとないチャンスなんだ。まなみ、もうお前しか頼れないんだよ。頼む!一生のお願い」

こいつの一生は何度あるんだろうか。

こんなのが元彼だと思うとつくづく情けなくなる。

「彼女に借りればいいじゃん」

「もう結構借りちゃってるんだよな」

潔いクズだ。



智也は元からクズだった訳ではなかった。

同棲を始めた頃なんかは仕事で毎晩遅くに帰ってきていた。

智也の職場はいわゆるブラック企業らしい。

なんとなく私はそれを察し始めていた。

智也の様子は日を増す毎に憔悴していった。


その日、智也が家に帰ったとき私はシャワーを浴びていた。

シャワーから出ると智也は玄関にへたりこんでいた。

顔をあげた智也の目は少し赤くなって目やにがそこかしこについていた。

玄関に入りホッとして泣き出してしまった様だった

それを見かねて軽率に言葉をかけたのが良くなかった。

「そんなに辛いなら辞めちゃってもいいんじゃない?」


初めは嫌がってた智也だが、話すうちに少しずつ態度は軟化していった。

それから暫くは質素だが幸せな生活が続いた、休日には二人で公園で遊んだり、海に行ったりして過ごした。

そんな朗らかな生活も長くは続かなかった。

働き詰めだった反動もあったのだろう彼は日々少しずつ自堕落になっていった。
学生時代以来やっていなかったパチンコにいくようになった。
私が危ないと思った頃にはなにもかもが破綻した後だった。
そのとき辺りから私たちの別れは決まっていたような物だった。
それでも彼との生活はカーリングのストーンのように惰性でどこまでも引き伸ばされた。




結局私は彼に金を貸すことにした。

10万円、決して安くない額だ。

パドックに並ぶ馬たちを眺める。

馬は女性の理想の姿を体現しているらしい

雄大で物静かで、隣で鼻息を荒くしている智也とは大違いだ。

私はとっさに目線を落としたダートの地面が砂浜みたいだった。



智也との同棲の期間中私も休職したことが一度だけあった。

あまりにもお金がなさ過ぎて二人で海に食べられる貝を探しに行って無駄に体力を消耗するに終わったりした。

これはマズイと思って本腰を入れて再就職を始め、1か月後にはなんとか再就職先を見つけることが出来た。

あの時惰性に流されていたら、今頃智也と共倒れだったかもしれない。

その後も智也との同棲生活はしばらく続いた。
そのとき辺りから買い物の際に小銭が足りなくなる事が増えた。



「こいつだよ、」

9番アーモンドアイ

綺麗な瞳の鹿毛の馬を見て智也は言った

「瞳の形が好き」
付き合ってた頃ともやはよく私にそう言っていた。

そういうところ変わってないのね。

「馬って結構かっこいいのね。私も買ってみようかな。」

後で考えてもなんでこんなこと言ったのかは分からない。

ただ、なぜか無性に悔しかった。

「いいけど、そいつ牝だよ。」

「知ってる」



私は7番ウォッカの単勝を1000円分買うことにした。

金を貸した上に、こんなレースに付き合うなんてどうかしている。

智也との思い出を呼び起こしたからだろうか、私は昔付き合った男達について考えていた。思えばクズばかりだった気がする。

みんな最初はいい人に見えるのにしばらく過ごすとダメな部分が見えてきてしまう。

男を見る目がない。

智也も最初は真面目で素敵な人に見えた。

今の姿はその片鱗も感じることができなかった。


「おい、そろそろ始まるぞ。」

ぼーっとしている私に智也が話しかけた。

慌ててゲートの方を見る。

ゲートが開いて一斉に馬が飛び出した。

競馬に行き慣れていない私にはどの馬がどれかよく判断がつかない。

大きな塊がコース上を蠢いているように見えた。

そのなかから一筋、一匹の馬飛び出した。

アーモンドアイだ。

まるで怪物と闘う騎士のように後ろの塊を遠ざけて行く。

「ほらな!やっぱりこのレースはアーモンドアイなんだよ。」

智也は隣ではしゃいでいる。

転べ!私は気づくとそう祈っていた。ここで彼の馬が勝てば10万は確実に返ってくる。そのはずなのに。

しかし、アーモンドアイは安定した姿勢で後続を突き放す。

圧倒的な優位でアーモンドアイはゴールまでの直進に差し掛かった。

そこに別の馬が後ろから巻き返す。

7番のウォッカだった。

アーモンドアイとの距離をみるみる詰めていく。

さっきまで浮かれていた智也の顔が急に緊張した。

みるみる差は縮まり二匹の差は0.5馬身を切った

行け!刺せ!

私は心から強く願った。

そして、アーモンドアイとウォッカはほぼ同時にゴールした。

どっちだ。

会場全体に緊張が走る。

掲示板には一着9番二着7番と表示された。

負けたのはウォッカだった。

「おっしゃーー!あぶねぇ!ちょっとヒヤヒヤした。な、この後なんか食いに行こうぜ。奢るからさ!」

隣で智也が話してる言葉が頭に入ってこない。

会場が熱気に沸く中、掲示板に青いランプが灯った。

審議が入ったのだ。

アナウンスが流れる。

「ただいまのレースは9番アーモンドアイの進路妨害があったことで、アーモンドアイを降着とします。」

掲示板の一着の欄は7番に切り替わった。

隣の智也の顔から血の気が引いていくのがわかる。

反対に私の顔は智也の精気を吸っていくみたいに紅潮した。

「すまない、かりたお金なんだけど、少しずつ返すから」

智也の言葉が尻窄みに小さくなっていく。

「いいわよ、私もう男に期待してないから」

あっけに取られた顔をした智也に回れ右をして私はその場を立ち去った。

千円は千三百円になって返ってきた。

「電車賃分も儲けられなかったな」

言葉とは裏腹に顔のにやけが抑えられない。

今まで付き合った男につぎ込んだ時間は今やなんの価値もない、負け馬に乗り続けたような人生だった

でもやっと勝ち馬に乗れたのかもしれない。
自宅で待つ彼女に今日のことをどう話そうか考える。

私は男を見る目がない。

競馬場に指す夕日が、私のにやけ顔を照らしていた。

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