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ツギムスビ【に:二人三脚】

シャワーヘッドから伸びる冷たい筋が、頭にあたって後頭部へと抜ける。

ひたひたと浴槽にたまる水は、心の平穏を担保するように私を無心へと導く。
服を着たまま浴槽に入れられた私を母が真剣な目で見つめている。

その隣には××が立っていて。何かしきりに唱え続けてクジを切っている。

私はその手の動きを何とはなしに見つめていた。

どこかから王子様が業火を引き連れてここを焼き尽くしてくれる。

そんな光景を夢見ていた。


お前ら!次の授業までにちゃんと組を作っておけよ。

HR終わり、担任の幣原(しではら)の声が響く。

幣原は20代という若さと爽やかな見た目から、一部の女子グループから人気があったが生徒とは深くかかわらない主義なのか表向きは気が付いていないように振舞っていた。

つまり、いけすかない奴だった。

朝から時間をかけてセットしたであろう髪型や彼から香る香水や、ブランド物の時計まで、彼の身なりのありとあらゆるところが彼のプライドの高さを象徴しているようだ。

生徒の自主性や自由を大切にするという建前で、自分にかかる責任を最小限にする姿勢も鼻についた。

今回もそうだ。

このクラスの問題児、相川柴恩(あいかわしおん)を誰に押し付けるか自分で決める責任を避けるために生徒に決めさせているのが見え見えだった。

相川柴恩…

彼女の家は宗教をやっている。

本当かどうかはわからない。ただ、クラスのやつが大声で言っていたので知っている。

名前とは不釣り合いな平凡な見た目でいつも一人でいる女子生徒。

相川柴恩の顔は控えめに言って中の下だ。

額は妙に広くて、歯並びが悪く全体的にちぐはぐな印象を残す。

クラスのあちらこちらでペアを作るための相談が行われる。

うちの学校は毎年夏に体育祭をする。

それだけでもなにかと問題になりそうなのに、体育祭の二人三脚では男女がペアになって走らされる。

僕は仲良く話せる女子も特にいなかったから、この手持無沙汰な時間が憂鬱だった。

何かしなくてはいけない、そう思いつつも僕は次のHRまでの時間をじりじりと過ごすことになる。

どうせそうなるに決まっている。

そう思うと背中をよぎった焦りもたちどころに消えてしまった。

次の授業まで僕は机に突っ伏して眠ったふりをした。


「二人三脚、私と組んでくれませんか?」

その声は自分に向けられた物ではなかった。

見ると声の主は相川柴恩の様だ。

声をかけられたのはクラスの地味な男子で、言われた言葉の意味が分からないというような顔で突っ立っている。

彼女はこわばった表情で、相手の目をのぞき込んでいた。

窓から入る夏の風が、彼女の短く切りそろえられた髪をかすかに揺らしている。

恐らく両者は入学以来一度も話したことがなかったのだろう。

気まずい空気の流れが、ここまで伝わってくる。

結局その男子は二言三言ボソボソと何かを伝え、相川紫恩が少し肩を落としたのが見えた。

正直、少し見直した。

流れに身を任せる自分と違い、自分の義務を全うしようとしている。

少なくとも僕にはそう見えた。


「依田(よだ)君!」

午後の休み時間に、彼女は僕に話しかけてきた。

「もしよかったらなんだけど、二人三脚、私と組んでくれないかな?」

あの後も何人かの男子に声をかけたらしい。

こころなしか、笑顔は今朝見た時よりも強張っていた。

それでも瞳は希望の残滓のようなものが残っていて、僕の返答を待っている。

僕は相川紫恩の瞳をまっすぐ見つめ返した。


結局相川紫恩からの申し出は断った。

人の性分はそう簡単に変わらないらしい。自分が薄情な人間だと分かっていたはずなのに、どこかモヤモヤとしたしこりを心に残したままの帰り支度となった。

郊外にある僕の街は中途半端に栄えていて、そのくせ公共交通機関はほとんど走っていない。

ご多聞に漏れず僕も学校への通学は徒歩だった。

空を見ると夏の日差しがまだ降り注いでいる。アブラゼミやツクツクボウシの声が響く。

冬なら今の時間はとっくに日が沈んでるはずなのが信じられないくらい、街は昼間の喧騒を帯びていた。



「木村と舘川がペアか、他には?」
幣原は既に決定しているペアを黒板に書いていく。
「ほかに、もう決まってるペアは居ないのか?」
クラスの7割くらいのペアは予め決まっていたが、残り10人ほど決まっていないメンバーがいた。
この中には相川紫恩もいた。
その後何人かに声をかけたのだろうが、誰も彼女の申し出を受け入れなかったのだろう。
ちなみに、当然僕もペアは決まっていなかった。

「仕方ない、残りの組はくじできめる。ペアの決まっていない男子は出席番号が若い順から1枚づつ引いていけ。」

幣原は短冊状の紙に女子の名前を書き始める。

幣原にとっても予定調和だったのだろう。
その作業は口でいうほど意外さを感じていないように、滑らかで淡々としていた。

ペアが決まっていない5人の男子のうち僕の順番は4人目だ。

幣原が握っている紙を、皆一枚づつ引き抜いていく。

垂れ下がる紙がさらさらと揺れて、まるで神社の神主が大麻(おおぬさ)を振っているような静けさがあった

まるでいざなわれるように教卓に進んだ僕は手を伸ばす。

2枚しかない白い紙の片方から、赤い糸が伸びているように見えた。

僕は糸を引き抜く。

幣原の表情がほんの少し緩んだ。

黒板に文字が書きだされる。

依田-相川

クラスの人間の憐みの目が自分に集まってくる。

相川柴恩の方を見ると、僕の目をまっすぐ見てほほ笑んでいた。

「よろしく」

放課後、相川柴恩が僕の席に来てそう言った。

相変わらず、その目には希望の残滓のようなものが見えた。



「練習?」

その日の放課後、僕は相川柴恩の言葉に耳を疑った。

「そう、本番までに週二回くらいはやったほうがいいと思うんだけど、依田君が忙しいなら週一回とかでもいいかなって思ってる。」

「いや、え、ちょっとまって」

「…ん?」

相川紫恩は心底不思議そうな顔でこちらを見つめ返す。

「体育祭の練習なんてやるの?」

「依田君は勝ちたくないの?」

相川柴恩の目をじっと見たが、冗談やてらいの類は含まれていないようだ。

「無いよ、そもそも勝って何かいいことあるの?」

「あるよ、きっとクラスのみんなから褒められる。」

相川紫恩はまっすぐな瞳は僕を見下ろしていた。

あ、この子は底抜けにバカなんだ。

ウチの高校に入っていることを考えると勉強はそこまで出来ないというわけでもないのだろう。でも、相川紫恩のいびつな雰囲気にはどこか人間の欠陥品のように見えた。

「褒められるとは限らないし、そんなことのために頑張るなんてバカみたいじゃないか」

「うーん、そうかな。でも、もし依田君のいう通りでもさ。」

そういうと相川柴恩は少し屈んで、僕に顔を近づけた。

彼女の短い髪がほんの少し空気をゆらして、女子特有の甘い香りが鼻先を撫でる。

「でも、きっと良いことはあるよ。」

さっきまでのあどけなさが嘘だったみたいに相川紫恩の表情は

相川紫恩の瞳と、視界の端に映る彼女の胸の谷間が徐々に重なって回りだす。

相川紫恩の口許が少し上がったのが見えた。


練習場所は自宅の最寄り駅から程近い公園を選んだ。

幸い僕の家は学校から遠く、同じ地区からウチの高校に通っている者もいないためクラスメイトに見られる心配はなかった。

「並びはどうする?依田君が右でいいかな?」

なぜ相川柴恩に協力することにしたのかは自分でもよくわからない。

ノリというか流れというか、その場の空気で断りにくかったのもある。

でも僕が彼女の申し出を受けたのは、きっともっと深いところに理由があるような、そんな気もしていた。

「相川柴恩はなんでそんなに頑張るんだ?」

「え?」

相川柴恩は僕の左足を縛りながら顔を上げる。

「頑張ってるつもりはないんだけど、神様が見ているから。かな?」

「やっぱ、そういうの信じてるんだ。」

相川柴恩はその言葉には答えず、口許を引き結んで手を動かしていた。

相川柴恩は人間関係もそうだが、手先も不器用らしい。

せっかく出来かけた結び目は彼女の手の中をするりと滑り落ち、また元の木阿弥に戻ってしまう。そんなことを繰り返すうちに僕はもどかしくなって手を伸ばす。

相川柴恩は、え?という表情でこちらを見ている。

僕は構わずに紐を奪って二つの足を縛った。

「不器用かよ」

僕はなんて言っていいかわからず適当に悪態をつく。

「ありがとう」

そんな言葉にも彼女は相変わらずの屈託のなさでそう答えた。


練習は制服でやることにした。

家に帰ってわざわざ着替えるのも面倒だったし、早く終わらせたかった。

夏なのに学校の黒いベストを着て走ると暑いだろうと思ったが、その辺に置いて汚れるのも嫌だったのでそのままの格好で走ることにした。

僕は右側に並ぶ相川柴恩に腕を伸ばす。

彼女と肩を組むと想像していたよりもずっしりとした体温が掌に伝わる。彼女の体を通して違う世界から届くエネルギーを受け取っているみたいだ。

自分が相川柴恩の身体に触れて動揺している。その事実に心が乱される。

これはノーカン。僕は心の中でそう唱えてやり過ごそうとするが掌からは微かな息遣い、仄かな汗。自分が今までの人生で意識の外に置いてきたもの達が目を覚まして頭の芯のあたりを舐め回すのが伝わる。

「どうしたの?」

掌だけを肩に乗せて腕を浮かせていると、相川紫苑がそう聞いてくる。

「別にそこまで本格的にしなくてもいいだろ。」

僕はできるだけ平静を保って何とか返答をするがシャツの下は汗でぐっちょりとしていた。

経験したことのない量の神経伝達物質が脳梁のあたりを飛び交っているのを感じる。

彼らを鎮める間もなく、相川柴恩は歩き始めた。

景色が揺れるたびに、胸から喉のあたりに熱いものがこみあげてくる。

まだ数メートルも歩いていないのに口の中はカラカラだった。

相川紫恩のリズミカルな掛け声が乾燥した口内までも震わせる。

その声はまるで固く閉ざした岩の扉を、車のジャッキアップでこじ開けるような、ジリジリとした強さを感じた。

やっとのことで公園の真ん中を一周する。遊具すらまともに無い小さな公園を一周しても、殆ど景色は変わらない。それが僕の苦悩の時間をより一層長く感じさせた。ちょうど、夜の荒れた海で救助を待つ人がその時間を永遠にも感じるように。

地面を踏み固める為の装置を歯車で動いているみたいに、カクカクした動きを続けながらも僕たちは一歩一歩進んで、その度に動きは少し滑らかになった。

相川柴恩の筋肉が収縮する。

僕の手の平がそれを感じ取る度に僕は言い知れぬ寒気のようなものを感じた。

僕は慌てて手の平から意識をそらした。

歩くたび相川柴恩の胸が軽く揺れる。

吐息はサーカス小屋の空中ブランコみたいに絶妙な軌道でバランスを保って吐き出される。

そのたびに、僕は心臓の内側をくすぐられる様なもどかしさに息を詰まらせた。

「そろそろ走ってみる?」

相川柴恩はそんな僕の思いを知る由もなく。

そう言ってきた。

「お、おう」

僕は少し戸惑いつつも承諾する。


僕らが転ぶのにそう時間はかからなかった。

走り始めると、相川紫恩の肩から伝わる感触は激しさを増し、脇腹や足の先がくすぐられるような、独特の不快感が僕の脳を駆け巡った。

そして、思わず手を放してしまっていた。

「あ…」

自分自身の体の反応に驚いてそんな声が出た。

相川紫恩が驚いてこちらを見る。

その一瞬、相川紫恩の背景がホワイトアウトしたような気がした。

そして、そのまま景色が途切れる。

バランスを崩した相川紫恩が倒れ、その上に覆いかぶさる形で僕は倒れた。

「…ごめん」

僕の下で相川紫恩の声が響く。不思議とさっき感じたような焦燥感は湧いてこなかった。


相川紫恩が右足に負った傷は痛々しかった。

制服のスカートから伸びた膝に何本も筋が入っていた。

血が珠の形に染み出す。それが心臓の動きと共に大きくなり自重に耐え切れなくなると、相川紫恩の細い足を滴り落ちる。

相川紫恩をベンチに座らせると流れ出した血が靴下に染みて一層酷く映った。

僕は何も言わずにその傷を見ていた。

「大丈夫だよ」

そんな僕を見かねてか相川紫恩はそう言った。

「出血の割に傷が大したことないみたい。それに私、血は依田君よりは見慣れてるの。言ってる意味わかるでしょ?」

相川紫恩の傷口からマグマのようにゆっくりと血が流れ出る。

僕はそこから目を離せないでいた。

長く公園にいたせいで、空はもう茜色に染まっている。

夕焼けに照らされる相川紫恩の血は気持ち悪くて歪で、そして美しかった。

「私ね、年の離れた弟がいたの」

相川紫恩は唐突に語り始めた。

「うまれて一年する前に死んじゃったんだけどね。交通事故でね。お父さんの運転する車が他の車と正面からぶつかってね。助手席に弟を乗せててね。遺体を見る限りお父さんは即死だったんだって。」

相川紫恩は感情を押し殺すみたいに明るく話す。

僕はなんて答えていいのかわからず押し黙るしかなかった。

「でもね、弟の遺体は結局最後まで見つからなかったの。警察の人は、当時弟が小さかったのもあって、車に潰されてちゃったんじゃないかとか、窓から放りだされちゃったんじゃないかとか色々言ってたけど結局わからずじまいなの。」

年が離れた弟ということは、この話は案外最近のことなのかもしれない。

僕は何となくそう思った。心なしか相川紫恩の言葉は血が固まり切っていない生傷のようなグロテスクさを含んでるような気がした。

「本当は私の方が先に死ぬはずだったのにね。」

最後の言葉は僕に向けたものではないかった。

それは岩に文字を刻むように何度も彼女が口にし、言葉の意味が氷解してしまっているみたいだった。

呪文、題目、念仏、真言。そこにあるのはいわばそういう類のものだった。

「こんな話しちゃってごめんね。今日はもう帰ろうか。」

夕焼け空には宵の明星が輝き始めていた。


その夜、僕は相川紫恩のことが頭にこびりついて離れなかった。

ベッドに横になって目を閉じても、脳裏に今日の映像が流れ出して止まなかった。

相川紫恩の膝から血がドクドクと絶え間なく流れ出す。

その度に、相川紫恩の筋肉が、肺が、心臓が脈打って空気を揺らした。

相川紫恩の顔を見ようとすると、夕焼けの逆光でよく見えない。

膝から流れ出す血液と、揺れる胸、夕焼けに照らされた相川紫恩の影。

それらがないまぜになって僕の頭の芯の部分に流れ込んでくる。

僕は気づくと股間に手を伸ばしてマスターベーションをしていた。

それは、欲求というより衝動に近いものだった。僕が全霊で止めにかかっても体はいうことを聞かない。

どんどん息が荒くなって、相川紫恩の姿が霞んでいく。

真っ赤だった太陽光が相川紫恩の体に突き刺さり攪拌され、真っ白な光になってあたりに飛び散る。

視界が真っ白で僕は発狂しそうになる。

僕は瞼を食いしばった。もう今の僕の理性で出来ることはそれだけだった。

気づくと僕は僕の右手の中で果てて意識を失っていた。


家の前を通る車のエンジン音が規則的に漏れ聞こえる。徐々に虫の音や風の音が聞こえてくる。

僕が意識を戻すと目から涙がポロポロとあふれて、枕元には口からこぼれ出した涎が染みを作っていた。

口の中に荒く熱いものが充満している。

僕は相川紫恩をオカズにしてしまった。その背徳感がやがてゆっくりと脊椎から胸に広がって、心臓を圧迫する。

ちがうんだ、これはそういう体の機能で…

僕はその場に居ない相川紫恩に言い訳をするが途中で馬鹿らしくなってやめてしまう。

瞼の裏に張り付いた相川紫恩の像はこっちを見下ろして、何故か赤い涙を流していた。

僕は居たたまれなくなって枕元のティッシュに手を伸ばす。

でもティッシュには手が届かない。怠く強力な睡魔が僕を引きずり込む。

比重の大きい液体に沈んでいくみたいに、意識が少しずつ絡めとられていく。

相川…ごめん。

道路を通る車の音も、虫の音もフィルターがかかったように遠くなる。


やがて強烈な眠気がやってくる。僕はトプンと音を立てて意識の沼に沈んでいった。

あとは赤い雫がポトポトと水面に落ち続けて、水面を揺らしていた。


イルカになる夢を見た。

沖のほうから月が照らす小さな湾を一人で泳ぐ。

不思議と月は沈みも登りもしなかった。

どれくらい泳いだろうか、気づくと僕の体には赤いロープが結ばれて、もう一匹の雌のイルカと対に結ばれていた。

水面から突き出した平たい石の上に出ると、僕等はひとしきり交わった。

それはまるで神事のような一種の神聖さを纏っていた。

僕等は行為の後に石の上でまどろむ。

そして、気づくと彼女は消えていた。

後には赤い紐だけが残された。


「相川、休みの日くらい練習しなくてもいいだろ」

土曜日の朝に電話で呼び出されるとは思っていなかった。

相川はキョトンとした顔でこちらを見ている。

「依田君、なんか雰囲気変わった?」

相川の顔を見ると、昨日の夢を思い出して少し気まずくなる。

「そんなことより、早く練習しよう」

僕は適当にごまかしながら紐を結んだ。昨日の相川の様子だと僕が結んだほうが早い。

かがんだ時に昨日の傷に絆創膏が貼られていて心がズキリとする。

でも、相川は何のこともないようにこちらを見下ろしていた。

そこから昨日のように相川と肩を組む。

相川の肩に掌が触れる。

一瞬の緊張はあったものの、昨日のような感情は起こらずに、僕の掌は相川の肩をすんなり受け入れた。

「わたしね、練習を初めて思うようになったんだけど、二人三脚って自分を見つめる行為だと思うの。」

暫く歩くと彼女は話し出した。

「人間は客体に自己を投射して、行為的に自己をより深く知ることが出来るとされているの、まさにこうやって互いを客体として投射しながら歩く姿は自己理解に最も近い行為なんだって思うの。」

それから、相川は暫く色んな話をしていた。

でも、僕は相川の家がやっている宗教のことはよく知らないし、信じるつもりもなかったから、唯なんとは無しに聞き流していた。

「この前話した弟の話覚えてる?」

相川がやっと僕の分かる話をしたのは、たっぷり20分ほど歩いたり走った後だった。

「事故に遭ったっていう?」

「私ね、実は弟は死んでないんじゃないかって思うの。」

相川は僕がきょとんとしたのを見て少し焦った顔をする。

「あの日、弟は朝からずっと泣いていたの。それこそ世界の終わりでも来るんじゃないかってくらいに。
私思うの。弟には事故にあう未来が見えてたんじゃないかって。
弟はそんな未来を避けようと模索した。それで、見つけちゃったんだと思う向こう側に行く方法を」

「向こう側?」

「うん、向こう側。パラレルワールドとか異世界転生とか、そんな感じ?
なんでもいいの。この世界じゃないどこか、そんな場所で元気にやっていてくれたらいいなってそう思うの。」

「それはあの世とかではなくてってこと?」

「多分ね……」

練習は昼過ぎくらいまで続いた。

「依田君よかったらウチでご飯食べていかない?きっとウチのお母さんも喜ぶと思う。」

僕は何で相川の誘いに乗ったのか、それは元々怖いもの見たさのような感情だった。

しかしこのとき既に相川という存在への興味が大きくなりすぎていた。

相川の家は思ったより普通だった。小さなアパートの一室4DK程の部屋は大きさだろうか、母子二人で住むには少し大きすぎるように思えた。

リビングに招かれたとき、僕は彼女の家はやはり【そういう家】だということを思い知らされる。大きなテーブルとキッチンそして図書室の本棚くらいのサイズの祭壇があった。そこには紫の布がかけられていて、長くて太い石が真ん中に置かれている。

相川はリビングに入るとその祭壇の方を向いて一礼した。僕もつられてそちらに一礼する。

キッチンでは相川のお母さんが立っていた。思っていたよりも若くうちの母親よりも多分年下だろうと思った。

ただ、相川の顔と同じようにその額は妙に広く、加齢によってか、よりそれが鮮明になっていた。

部屋には祭壇のほかに大きなピアノが置いてあった。相川が弾くのだろうかそんなこと思いながら促されるままにテーブルについた。

相川の母は話した限りでは普通の人だった。

昼食はカルボナーラスパゲッティとチーズケーキだった。

「私ねチーズが好きなの。小さい頃は食べさせてもらえなかったから。」

相川の母は、微笑ましそうに僕らを交互に見つめて言った。

「あのピアノ相川が弾くの?」

僕は祭壇に続いて圧倒的存在感を放つそれが気になって聞いてみる。

「ちょっとだけね。カノンとか簡単なのしか弾けないけど」

「カノンってパッヘルベルの?」

「知ってるの?」

「聞いたことがあるくらいだけど。」

相川いわく、ピアノを始めたのは最近の事らしい。僕がピアノの演奏をリクエストしてみても、まだ下手くそだから人に聞かせるのは恥かしいそうだ。

「上手になったら聞かせてあげる」

そういってはぐらかされてしまった。

食事を終えるとあまり長居も迷惑だろうと思い、僕は早々にお暇することにした。

「紫恩が友達を連れてくるなんて初めてだけど、学校でも楽しくやってるみたいでよかった、また来てくださる?」

「そうですね。」

僕は気まずくて適当にはぐらかした。

「依田君ありがとう、お母さんも喜んでたみたい」

食事が終わると彼女は玄関の前まで見送りに来てくれた。

「それとこれお母さんから」

相川はポケットからミサンガほどの長さの赤い糸を取り出した。

「これ、手首に巻いてみてそしたら勝てるからって」

相川はそれを僕に手渡す。僕は仕方なく右の手首に巻き付けた。

「うん、すごくいい。依田君に似合ってる。」

相川は心底安心したように言う

「じゃ、当日はよろしくね。」

そういうと相川は踵を返して玄関のほうに歩きだす。

「相川も信じてるのそういうの」

思わず口に出していた。一瞬だけ冷たい時間が流れる。
振り返ると、相川が驚いたようにこっちを見ている。
若干の沈黙の後、相川が少し笑って言った。

「私は依田君を信じてるよ」

彼女はそれだけ言うと玄関に入っていった。

「ちょっと待って、それってどういう…」

こと、という声とドアの閉まる音が同時に響いた。

後には静寂と夏の喧騒が残った。


その夜不思議な夢を見た。

真っ赤なクモの巣がどこまでも広がっている。
僕はそこに寝そべっていた。
頭上から生臭い息がかかり、上を見ると僕の背丈ほどもある蜘蛛がこちらを見ていた。
逃げようとするが、上手く起き上がれない。
右の手首が蜘蛛の糸にからめとられ、動きを封じられている。
蜘蛛は僕の頭を噛み砕いて食べ始める。僕の頭から心音に乗って血が吹き出す。
僕の心臓のリズムだけが響く。その音に耳を澄ますとフーガのように追いかけてくる、もう1つのリズムがあった。


次の日は相川からは何の連絡もなかった。

月曜日登校しても、学校に彼女の姿は無かった。

次の日もその次の日も彼女は学校にこなかった。

幣原に聞いたら無断欠席だという。家に電話しても繋がらないらしい。
普通なら家まで訪ねるのだろうが、幣原がそこまでするはずもない。
今回は幣原の無責任さに救われた。
彼女が来なければ二人三脚何てやらなくて良い。そう思い胸がスッとする。
でも、どこかでモヤモヤとする気持ちが腹の底でグルグルと動いていた。昨日の夢で右腕が締め付けられたのが甦る。

やがて一週間が経ち、二週間が経ち体育祭当日となった。
学校に行くとグラウンドに彼女の姿があった。

僕の当惑を予見していたかのように彼女は口を開いた

「言ったでしょ。当日はよろしくって」



競技はクラスごとにタスキを繋いでいく所謂リレー形式だ。

青、緑、黄色、赤4つのクラスにそれぞれの色のタスキが配られていく。

僕らのクラスには赤色のタスキが割り当てられた。

準備が整うと白い服を着た二者一対の姿がスタートラインに並んだ。

男女二人の顔が交互に並んでいる。

スターターピストルの音が鳴り響くと、それらは一斉に走り出した。

目の前を色鮮やかな布が通り過ぎていく。

ひらひらと、揺れる布はスローモーションのようにゆっくりと流れてまるで精霊流しでも見ている様だった。


…くん、よ…くん

「依田君!!」

相川の声で我に返る。
気付くとリレーはだいぶ順番が回って、次は僕らの順番になっていた。

見ると他の色に比べて赤色がトラックの1/4周分ほど遅れをとっている。
周囲の声援も虚しく、その距離は徐々に広まっていく一方だった。

僕らは促されるままスタートラインに並ぶ。

赤いタスキを付けたクラスメイトは、今やっとトラックの半周を回り終えた。

彼らが僕らの背中へと迫って来るのが分かる。
僕はゆっくりとしゃがみ込んで相川の足と僕の足を結ぶ。
立ち上がると、背後から砂を蹴る音が響いてくる。
隣に並んでいた他のクラスの奴たちが次々にタスキを受け取り走り出す。
それを横目で見ながら僕はおもむろに相川の肩に右手を置いた。
大丈夫息は上がらない。
相川の白い服の上に赤いひもが揺れる。
振り向くとクラスメイトはすぐそこまで迫ってきていた。
そしてタスキが渡された。

そこからの記憶はフィルム映画の様に断片的で高速だった。
気付くと僕らは緑、黄と対抗チームを追い抜いて。
トップを走る青のタスキにまで迫っていた。
目の前で青い布がたなびく。何故か右の手首が思い切り締め付けられるような感触に襲われた。右手が灼けるように熱くて、何故か同時に力が湧いてくる。おばさんのミサンガも案外効果があるのかもしれない。場違いにもそんなことを思考の片隅で考える。
必死に速度を上げる。相川も僕のペースについてくる。
青のタスキとの距離は徐々に詰まっていき、彼らを追い抜くと、僕らは次のチームにタスキを繋いだ。

結局僕らの健闘も虚しく二人三脚の結果は2位だった。

「本気で頑張ってもこんなもんか、結局勝てもしなかったし、褒められもしなかったな。」

「ううんよかったよ。」

相川は満足そうだった。

「紫恩!見てたよ。よかったじゃない。」

相川の母親が声を掛けてくる。どうやら見に来ていたらしい。

「依田君もありがとう。娘の練習に付き合ってくれて。」

「いえ、今日頑張れたのは、おばさんがくれたミサンガのお陰もあるかもしれません。」

「ミサンガ?何の話?」

「ほら!おばさんがくれたこれ!」

僕は右手首をおばさんの前に出す。
でも、何故か手首からミサンガは跡形もなく消えていた。

おばさんは不思議な顔でこちらを見ている。

慌てて何か言おうとするが、状況が理解できず二の句が継げない。

〈閉会式を始めます、在校生は表彰台前に集合してください〉

グラウンドにアナウンスが響き渡った。


ダラダラとした空気で閉会式が始まる。
校長の長いお説教を聞き流していると。
後ろから肩を叩かれる。
振り返るとクラスメイトの和田が嬉しそうな表情でこちらを見ている。

「お前、さっきの凄かったな。見直したよ」

和田は溌溂とした表情でそういった。女子から人気のありそうな整った顔立ち。そんな奴はせめて性格が悪くあって欲しいものだが、神は二物も三物も与えるものらしい。彼の言葉に裏表は無いようだった。

「あ、ありがと」

でも、そこまで嫌な気もしなかった。

「この後、吉田とかと打ち上げするんだけど良かったら来ない?」

「えっと、相川も呼んでいいかな?」

「ああ、そうだな。よろしく頼むよ。」

閉会式が終わると帰ろうとしている相川を見つけて声を掛けた。

「さっき、和田に打ち上げに来ないかって誘われたんだけど良かったら相川さんもどうかな?」

「ごめん、私この後家で用事があるんだ。」

そういえば、さっきおばさんが家で準備してるとか言ってたな。

「そうなんだ、じゃあまた今度だね。」

「うんまたね。」

僕らはそこで別れた。


その夜は初めて遅くまで遊んだ。
家に帰った時母親が心配したくらいだ。
今まで学園生活なんて下らないと思っていたけど。
案外こういうのも悪くないのかもしれない。そう思い始めていた。
その日はうちに帰るとシャワーだけ浴びてゆっくりと眠る。
意識がまどろみの中へ溶けていった。


シャワーヘッドから伸びる冷たい筋が、頭にあたって後頭部へと抜ける。
ひたひたと浴槽にたまる水は、心の平穏を担保するように私を無心へと導く。
服を着たまま浴槽に入れられた私を母が真剣な目で見つめている。
その隣には××が立っていて。何かしきりに唱え続けてクジを切っている。
私はそいつに向かって右手を伸ばすその手は灼けるように熱かった。


僕が目を覚ましたのは明け方だった。
まだ太陽も昇っていないようであたりは真っ暗だった。
何故か階下ではどたどたと激しく歩き回る音がする。
嫌な胸騒ぎがした。
やがてその足音は階段を上ってきて、僕の部屋の前で止まった。
ゆっくりとドアが開く。
見るとそこには直立したまま無表情でこっちを見る母親がいた。
あたりが暗いせいか顔だけが宙に浮かんでいる様に見える。
「あら、起きていたの。」
母の声はどことなくいつもより空々しかった
「どうしたの?こんな時間に」
母は僕の問いかけが聞こえていないかのように、表情を変えない。
しばらくの沈黙の後、母は口を開いた。
「実は、相川さんのお宅がね……」
僕は母のそのあとの話に言葉を失った。
相川の家から火が出たらしい。
焼け跡からは、相川の母親と身元不明の男の遺体が見つかったが何故か相川の遺体だけは見つからなかった。出火の原因も最後まで分からなかった。

それからの僕の日々は、また以前の様な寒々しいものに戻っていった。
和田たちも、何度か誘いを断るうちに、僕のことを誘わなくなった。
相川は向こう側に行ってしまったんだろうか。だとすれば向こうで弟と再会できただろうか。
教室の窓の外を眺めながらそんなことを妄想する日々が続いた。
思えば彼女の膝から流れ落ちた赤い血も、通り過ぎていく色鮮やかな布も、胸の高鳴りも全てはおぼろげで、夢だったんじゃないかとすら思えてくる。

程なくして僕らは受験戦争という現実的な問題に巻き込まれていった。
御多分に漏れずこんな僕もそれなりに勉強して、それなりの大学に入った。
ふとあの頃の事を思い出すと、まるで今の現実の方が夢なんじゃないかと思えてくることがある。大学に入って出来た友人も、大学の講義も、通学中のバスもどこか灰色で、あの頃よりも金も時間もあるはずなのに、あの頃あった何かを失ってしまっている。そんな虚無感が僕の周りに蔓延していた。
それが現れたの大学の廊下を歩いている時だった。そんな灰色の景色の中に一筋の鮮やかな赤色が目に入る、幻覚だと思った。その赤い糸は廊下の向こうまで伸びていて僕を導いているように揺れている。
僕はもう躊躇わなかった。その糸をたどっていくと講義用の教室にたどり着く。ドアに挟まれた赤い糸はひらひらと揺れている。
僕は意を決して手を伸ばす。
ドアを開けると教室には何故か大きなピアノがあった。
誰かがピアノに向かって曲を弾いているがここからは顔が見えない。
曲はパッヘルベルの『カノン』
優雅なテンポと鮮やかな音に包まれながら、僕はゆっくりとピアノに回り込んで覗き込む。
彼女は指を止めてこちらに向き直った。

「言ったでしょ。またね。って」

相川は僕の目をまっすぐ見てほほ笑んだ。

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