風煙
ご無沙汰しております。
舐達麻の「BUDS MONTAGE」からイメージして作ってみました。
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魂は煙になるのか、それとも自然の中に溶けていくのか。世から去った者から何かを問うことは決して出来ない。私たちはその見えない世界に対して一切感じることも出来ぬまま、ただ空想で物語を作り上げ、畏怖しそして見えない世界へに思いを馳せる。その人が生きていた在りし日を思い出しながら。死んだ人を思い出すというのは、そういうことなのよ。私は「死んだ」母から何度も伝えられてきた。母は何も分かってなんかいなったと思う。その死んだ意味やなぜ弔うのか。見えない世界に思いを馳せる意味も、一つも分かっていないのだろう。そんな母は、私の世界にはもういない。
とうに私は母を葬ったつもりでいた。正しく言うと記憶の中で既に母は煙のようになっていた。元々掴もうとすればするほど、逃げていくような人だった。それなのに、私から消えることがなくて。子供の頃に見た、母の顔と姿が忘れられない。そのたびに必死で記憶を何とか葬り去ろうとする。
それなのに。いつも母は出かける前に一本だけタバコを吸ってから出る姿を、何度も思い出してしまう。バニラの匂いのするタバコを一本だけ。口から煙が吐き出される時、母は私の母親から一人の女の仮面をかぶる。手を引いて私を保育園へと連れていくときには夜の女のそれだった。
夜と酒とバニラのタバコの匂い、襖の向こうで漏れた嬌声、朝方に臥して泣く姿。安いアパートの中で、母は私を見てくれたことなんて一度もない。私は母にとってアクセサリーの一つにしか過ぎなかったのだろう。
「いつも大変ですね」の言葉に微笑んでいた母のことを、良く覚えている。大体は門か少し離れたところに男を待たせていて、見ず知らずの男と三人で家へと帰っていた。それが日常で、それが私にとっての家族だった。
母が「死んだ」ことを知らされたのは、そんな生活が4年も続いたある日のことだった。今でもよく覚えている。前の夜は大雨で、窓ガラスが揺れているのを見ながら眠りについたのを、今でも覚えている。朝に目を覚ましたら私の前には、もうママとパパがいた。それが初めましてだった。
「おかあさんは」
尋ねると、一瞬言葉に詰まってからママは答えた。
「死んでしまったの」
悲しそうな顔をしながら。ママのその顔は、母にそっくりだった。その日、私は4歳になった。
嘘だということは、なんとなく分かっていた。私のことが世界で一番大切って言ったその次の瞬間に、母は男のほうが大切になっていたことだってある。男の撫でられた手から、愛を感じないように。私は嘘に慣れていた。良くも悪くも。だから、ママの言葉が嘘をついていることも分かっていた。けれど、それを口に出すことをしなかった。母に嘘つきと怒ったときの悲しい顔が忘れられなくて。母と同じ顔をした、ママを悲しませたくなくて。
だから母が生きていて、ついこの間亡くなったと知らされても、決して驚きはしなかった。それを受け止めるだけの度量はもうできていて、二度と会うこともないだろうと思っていた私の母は、もう本当にこの世には居なくなったのだ。という事実としてしか、私は受け止めることができなかった。
「そう、そうだったの。でも、ママがそんな悲しむことじゃないよ」
私はママの肩にそっと手をやった。その時、伏せていた目をゆっくりと私に向けた。
「れーちゃんは、それで良いの」
「私は大丈夫よ、気にしないで」
そう言って強がってあげないと、ママが悲しむから。それを私は分かっている。ママは私の頬に手をあてがう。
「あなたは本当に優しい子。だけれど、我慢することはないわ」
瞬間的に、私の中にあるどす黒い影がこみあげる。唇をしっかりと噛む。母と同じ血が私に流れていることさえ忌々しいと思っていて、やっとママとパパの子供になれたと思ったのに。
唇を噛む。そう思った時、私は去年の夏のことを思い出していた。帰省の帰り、駅前ロータリー。私と目が合ってほほ笑んだ女性。
どことなく懐かしい感情。だけれど、母はもっと派手で酒やタバコの匂いがして。もっともっと脆くて。唇を噛む。私の知っているお母さんじゃない。何度も何度も首を振って、家へと帰った。次の日のデートも全く気持ちが入らないままで。港町、夜、バニラの匂いのするタバコ。左腕を隠す。よっぽど怖い顔をしていたのだろう。
どうしたの、大丈夫? という声に、首を一回横に振って「大丈夫」と笑うのが精いっぱいで。彼氏がタバコの煙が遠くへとずっと高く登るのを、ただ私は見ることしかできなくて。煙が、線香のようにたなびくのをただ眺めていた。
「どうしても行かないの」ママは私にそう聞いた。「あなたにとって、大切な肉親じゃないの」
「私にとって、肉親はママとパパだけ」
なのに、ママもパパも首を大きく振って私に伝える。
「今ここで行かないと、いつか行っておけば良かったって、後悔する。れーちゃんに後悔してほしくないの」
声を張り上げようとした。それは私の中に残っていた強情のかけらの一つ。あの人に良く似たわがままな一面。いつも私に身勝手なことをして、最後は笑って泣きながら「ごめんね」という。あの人はいつもそうだ。微笑みを見せれば、許してもらえると思っている。手を伸ばそうとしてもまるでつかめないまま煙のように消えて行って。
目を閉じる。湧き上がってくるどす黒さをどうにかして抑え込む。私が母のことで声を張り上げれば、ママが悲しむ。それは分かっていたことだ。口をつぐんだ。ママが改めてきれいだ、と感じる。昔写真で見た母は、ママと同じようにきれいだ。私にも同じ血が流れている。
飛行機のチケットを手渡されて、鼻で息をした。そんなことを今まで一度もしたことが無かった。ママは悲しそうな顔をして俯き、パパは小さくうなずきながらただじっとそれを見ていた。それは同情か憐れみか。少なくとも、私が今まで持たれたくない感情のいくつかがそこに散りばめられていて。じゃあ、帰るね。と背中で返事した。
パパとママの家に来てからはずっと従順で、まっすぐで良い子でいようとしてきた。迷惑をかけてはいけない、と。自分が強く無ければいけないのだ、と。
母はとてつもなく弱い人だった。化粧と香水そしてタバコ、派手な服と履くだけでも大変そうなヒール。それは仕事で身に纏う衣服であり、自分自身という女性を強く魅力を持たせるもの。朝から昼まで眠り、夕方に私を保育園へと送り出すと夜までは帰らない。時々私にさえ迷惑をかけた。男を追いかけては一日中家を空けることもあったし、またダメになっては家に帰ってきて大きな声で泣きわめくことだってあった。私はそんな母を黙ってみているしかなかった。
それでも、私は母のことが嫌いになれなかった。最後は私のところへと帰ってきてくれる。「お母さん」として、私を抱き留めてくれる。寒い冬の朝に、母と布団にいることが何よりも心地よかった。暑い夏の夜に、うちわで扇いでくれたこともあった。あの夜、あの時までは私のところへと必ず帰ってきてくれると信じていたから。ガタガタと強い風が揺れる、嵐の夜。
時計の短い針と長い針が同じ12を指すころには、きっとお母さんは帰ってくる。私はそう思っていた。だって、その時こそ私が生まれた日だったから。一回、階段を登る音が聴こえた時にはお母さんだ、と思った。けれど、一回吼えるような声が聴こえてから、母の音は遠くに行ってしまった。
それから私は母が帰ってくるまで何時になっても待っていた。1を指し、2を指しても。母は帰ってこなかった。溶けるように眠りについたのは、明け方の事か。長い、どこまでも長い眠りについていると、鍵を開ける音がしてゆるりと目が覚める。ドアが開く音と同時に、大人たちがずかずかと入ってきた。たくさんの知らない大人と、保育園の先生。そこにパパとママがいて、ようやく4歳となった私の新しい人生が始まった。
ママが付いた嘘を私は心から信じるようにした。大人は嘘をつく。母は帰ってこなかった。ママは母が死んだと嘘をついた。母と同じような大人なんだと自分に言い聞かせながら、だからこそ私も私に嘘をついた。
「この人が本当の母親で、父親なんだ」と。
目を覚ます。家に帰ってから布団ですぐ横になっていて、気が付いたら夜中だった。空は黒くて、時計の針は2を指していて。誰も帰ってこない、一人暮らし用のアパートには白く電気が灯っていて。電気をつけていないと、夜に飲み込まれそうで。
夜になるとやっぱり寂しかった。どうしてお母さんは私を捨てたんだろう。どうしてお母さんは何も言わないで私の前から居なくなってしまったんだろう。心の中のどうしては、何度も大きくなってはしぼむまでに時間がかかって。そのたびに、目じりに涙がたまって行くのが分かる。
けれど、それも引っ込める技術を私は会得してしまっていた。泣くものか、と歯を食いしばりながら、腹に力を入れる。たったそれだけで、私の涙は収まる。それは自分への大きな嘘かもしれない。けれど、これでママもパパも悲しい顔をしないで済むから、私はいつも私に嘘をつくことで、感情を無理に抑える。
怒りも悲しみも笑いも楽しみも。歯を食いしばり、腹に力を入れれば、それだけで瞬間的に収まる。ママとパパと暮らすようになってからも、時々自分は捨てられたという感情で満たされることが多くなる。そのたびにどす黒くて、嫌な私が鏡の中に映る。あの人にとって私は醜い存在だった。邪魔な存在だった。自分がかわいそうで、嫌な存在になる。何度鏡を叩き割ろうとしただろうか。
どす黒い感情が抑えられないほど滲み出そうになるたびに、痛みで紛らわせた。左手の線状に作られた傷跡。痛みと引き換えに、何度も感情を押し殺した。歳を重ねれば重ねるほど、その傷は多くなり過ぎた。今、その傷を覆い隠すように黒いハイビスカスが咲いている。
かわいそうな人と思われたくなくて。かわいそうと思われたら負けと、勝手に私はその決意を秘めたまま、歳を重ねれば重ねるほど意地を張るようになっていた。
大人になればなるほど増えていった傷跡を、パパとママは知らないはずもないだろう。それでも黙って、パパとママはそれを見ないふりをしていた。私が私を否定し続けた刻印。それは自らをすべて受け入れきることの難しさ。パパとママに反抗さえ見せなかった私が傷跡隠しにバニラの花を入れたことを知っても何も言わなかったのは、きっとそういうことだ。
涙の代わりに何度となく傷つけてきた左手。傷をつければつけるほど、悲しみは勝手に癒えていく。
それなのに。また、あの母の記憶。蘇り私はまた苛立ちを抱える。意味もなく、掃除を始める。読まなくなった雑誌、埃が立っているフローリング、音の出る掃除はできないけれど、何か一つでも良いからとにかく気を紛らわせないと私自身が飲み込まれて、また左手を傷つけてしまいそうな気がして。母と同じものがあると思えば思うほど、心が毒されていく。忘れなければ。それなのに、どういうわけか鮮烈に記憶がよみがえる。彼氏が忘れていったタバコ、バニラの匂い。夜の街のネオンと煙。
ママから電話があったのは、すっかりと空が水色になった時のことだった。
「どうしたの」
「れーちゃん、昨日はごめんね」
「良いの。気にしないで」
「ううん。あんなにれーちゃんが怒ったのは初めてだったから」
私は言葉をつぐむ。捨てられなかったタバコを弄びながら、会話する。どうにも、私は思っている以上に怒っているように見えたらしい。
「そっか」
それ以外に、言葉が出てこなくて。いつもはあんなに仲良く話しているはずのママと、それ以上の言葉が続かない。
「昨日ね、渡しそびれたものがあったの」
「渡しそびれたもの?」
「時間があるときで良いから、取りに来てくれないかしら」
逡巡して、ママの顔と母の顔が重なった。断る理由は無かった。
仕事帰りに実家へと向かうと、ママとパパが二人で揃って迎えてくれた。とても神妙な顔をして。それは子供のころ、ママとパパが夜遅くに二人で思いつめたようにしていた顔と同じだった。そのたびに私は悲しい気持ちになる。やっぱり、私はこの家に来てはいけなかったのかな。自分への嘘が暴発して、左手に黒紅色の線を描きたくなる。
「れーちゃん」
リビングのテーブルに座ると、一つの手紙が渡された。
「あなたのお母さんから渡されたの」
「いつ」
「去年の夏。れーちゃんが帰ったすぐ後のことよ」
思い出す。駅前、道端。ママとそっくりの顔。私に瞬間的に目を向けて微笑んだ女性。嘘。あんなのお母さんじゃない。もっと私の母は汚れていて、私なんて大事にしていなくて。
「死んだら渡してほしいと言われていたんだ。邪魔をしてはいけないと思っていたんだろう」
「なんでよ」
「あなたの顔を見る資格なんてない。お姉ちゃん……あなたのお母さんはそう言って一枚の写真だけ持って帰った」
「死ぬのを覚悟していたんだろう。それでも、あの人はこれだけ伝えてほしいと手紙を書いたようだったんだ」
白い封筒と便箋。かつて夜に染まり切っていたあの人とは思えないほど、どこまでも純白で。私はその手紙を開いた。
◆
『れーちゃんへ。
この手紙を読んでいるということは、もう私はこの世にはいないのでしょう。私はあなたにきっと、思い切り憎まれながら世を去っているかもしれない。……いいえ、私のことなど歯牙にもかけないでいるかもしれないわね。
れーちゃんの本当のお父さんと駆け落ちするようにして結婚した私には、本当に誰にも頼ることができなかった。それは今思うとただの意地っ張りで、れーちゃんのことを一切考えていなかったわね。
そして、あの雨の日の夜。私はれーちゃんを連れて、身を投げようと思った。れーちゃんにこれ以上苦しい思いをさせたくなくて。自分の手で幸せにできないことが、悔しくて。
だけどできなかった。あなたにとってその次の日がとても、とても大切な日だってことを知っていたから。あなたにとってその日が意味のある日だって、知っていたから。
だから、あなたの今のお母さん……私の妹に縋るようにして電話したの。やってきたのが次の日だったのは、あまりにも雨が酷すぎて外へ出られなかったからみたい。れーちゃんもあんな雨の中、心細かったよね。独りぼっちにさせたのだものね。
嵐の中で、近くにあった大きな橋から身を投げて死のうとした。だけれど、死ねなかった。気が付いたら病院で、お姉ちゃんと旦那さんがいた。泣き崩れたわ。何もない私はとうとう死ぬことさえもできなかったのだから。
きっとれーちゃんは私のことを憎んでいるでしょう。忘れたいと思ってもそう簡単には忘れられないはず。勝手な行いしかできない、私の身勝手なお祈りでしかない。だから、最期は風と木と生きる者に私を委ねることにした。一個だけお願いがあるとするなら。風になって、あなたのことを勝手に見守らせてちょうだい。それだけよ。
やっぱり私は私のことしか考えられない人。きっとゆう君やかりんちゃんのママみたいにママなんてできない。子供を持つ資格のなかった人だったのね。あなたにできたことなんて何にもなかった。あなたに何かをしてあげることさえもできなかった。
だけど、大人になったれーちゃんは、素敵なひとになっていた!
あなたが今日の今日まで生きてこの手紙を読んでくれた事。それと、あなたがこれから私のことなんか忘れて幸せになってくれる事。私にはそれだけで十分です。
元気で。』
◆
手紙には最後までお母さんという主語が無かった。それを見て、どす黒くぶつけようのない何かが、こみあげてくる。手紙に皺が寄る。
「お互い意地っ張りね。どうしてこんなに意地を張るのかしら」
「知らないわよ」
言葉がそれ以上、出てこない。母は死ぬことをもう覚悟していた。それは自ら選ぶ死ではなく、寿命がもうすぐ来るということを覚悟しなければならない死。それでも会うことを断った。なのに、どうして母は最期まで良い距離感でいようとするのだろう。どうして母は都合よく私を娘だというのだろう。どうして、どうして。
なのに、それと同じくらいどうして私はあの時、声をかけなかったのだろうかと自らに問おうとしていた。そんな自問自答は不要なはずなのに、あの時にお母さんと声をかけていれば、きっと母は私の名前を呼んでくれたんじゃないのか、母はまた違った最期があったんじゃないのか。頭の中に生まれた後悔が、渦巻いた。
「無理に行けとは言わない。だけれど、本当にここで最後行かないと後悔するんじゃないのか?」
パパは私の肩を持って、そう言った。
「れーちゃんが家族なのは変わらないし、れーちゃんがまたこの家に帰ってくることは分かっているから」
ママはハンカチを押さえて、そう言った。私はあまりに情けない顔をしていたのだろう。パパを見た時、わあと泣きそうになって、それでもこらえた。今、ここで泣くことじゃない。かすれても、詰まってでも伝えることは、同意だ。首を縦に振って、パパの言葉を受け入れた。
飛行機を降りて、港へと向かうタクシーに乗りついで。ようやく船で辿り着いた小さな島は、エメラルドグリーンに輝く海とともに私を迎える。母は、この島で亡くなった。私はそれがあまりにも信じられないほど、このきれいな海に母がいたという面影を探す。
あんなにこみごみとしていた私の街とは違う、夜の匂いさえしない島。もうすっかりと日が昇った島は太陽の光を延々と受け続けている。強い風を感じながら、母の最期の島を目を細めながらまだ眺める。
島の遠くにある岬に見えた、自然とは相いれない石造りの何か。小さな小屋のようなものがいくつも並ぶ、海に面した場所。風と木と同化しながら、母は逝った。
喫煙所で、慣れないタバコを吸う。バニラの匂いのするタバコ。母がいつも漂わせていた匂い。最期、弔いのために私が母に化ける。そうこうしていると、案内してくれる人がやってきた。最期母を看取ったおばあさん。
「やっぱりあの人に似て美人だねえ」
「そんな」
「笑った顔も、よーく似ているよ」
欠けた歯を隠すこともなく、おばあさんは笑う。連れて、私も笑った。今日、私は母になる。
案内人に言われるがまま、あの岬へと案内されていく。そこにあったのはコンクリートでできた小さな家のような建物。その中でひと際新しいものが、一つ。おばあさんはここで歩みを止めた。
首をかしげると、どうもここが私の母の墓らしい。壁のような戸を隔てて、向こうには母が眠る。そっと触れようとすると制されて、首を横に振られた。この扉とこちらはあの世とこの世。許された時にしか開くことができない場所だという。
手紙をもう一度読む。読めば読むほど、私は本当に母のことを知らないのだと思う。
「母は、ここではどんな人だったんですか」
おばあさんに尋ねる。おばあさんはよどみなく、まっすぐに私に語り掛ける。
それはそれは熱心に畑仕事に勤しんでは質素な暮らしをして、お酒もたばこも手に付けないまま静かに、ただ愛想良く過ごしていた。だから島の人たちからも本当に愛されていた。なのだけれど、時々とても怖かった。毎日毎日憑りつかれた様に祈ってはれーちゃん、れーちゃんと天に向かって小さく言葉をこぼしていたから。ただそれも、一度内地から帰ってきてからその意味が分かった。
「あんたのことだったんだねえ」としみじみおばあさんは語りながら、それでも寂しそうに言葉を紡ぐ。私のことをずっと祈りながら、幸せを強く願いながら、そのためだけにただ生きていた、と。会いに行けばいいと諭しても、私に会いに行く資格なんてない。あの子を愛してあげることができない人を誰が親だと認めてくれるのか、と。
唇を噛む。それは自分に嘘をつくための物ではなく、嫌悪でもなく。やっぱり親子だったのか、という後悔の念。あの時、声をかけていた時の未来を見てみる。母が私と夜を去ると決めずに帰ってきた夜からの未来を探る。けれど、今にはたどり着けない。
「一本吸っても?」
どうぞ、と促されバニラの匂いのするタバコに火をつける。深く煙を吸い込もうとすると咳き込んでしまうから、口に入れてすぐに吐き出す。ねえ、お母さんはこのタバコすきだったものね。
ふ、と笑ってから岬を振り返る。あの世とこの世をつなぐ先には、海が広がっている。どこまでも広大な海は、いよいよ太陽が沈もうとしていて、ソーダ色をしていた空はどんどんとオレンジ色に染まっていく。もうすぐ、母が生きていた時間がやってくる。まだそこには母が確かにそこにいるような気がする。
「母はこれからどうなるのですか」
問うと、残った者たちで骨を洗いながらゆっくりと自然に還していく、という。習わしに沿って。母は、私を見ようとしなかったのではなく、私を愛していなかったのではなく。自分を愛するために、そして……私を愛したかったがために。風になり土になり、木になり。そして……空気になり。母は、私を守る。だからこそ、取りつかれた様に祈っていたのだろう。不器用な人。
「その時に、また来ても?」
おばあさんは深くうなずいた。笑顔になりながら。
もう、次に来るとき母と私は骨との対話になる。魂は風になり、雲になり、木々になり、そして……散り散りになる。母はここにはいない。私の心にさえも。ならば。私はライターで手紙に火をつけた。ゆっくりとゆっくりと燃えていく。なかなか燃えない紙。母の言葉や思いが込められた手紙。それが私が母にできる、何よりの弔い。
「れーちゃん」
最後、黒く燃え尽きる瞬間に母の声がした。ような気がした。忘れかけていた声。私は膝をついた。黒い燃えカスは、風が運んで行った。
忘れられるわけがない。おかあさんのこえ。
気が付くと私の世界は急激に滲む。手を覆い、子供のように泣く。ずっとこらえていた、痛み。愛されていたかったという渇望。こらえていたもの、全てが決壊してあふれだした。今の今まで黙っていた母。結局私たちはどう頑張っても似た者同士だ。親子だったのだという事実。言葉と心が痛い。
この世界中のどこかで今も見守っているのだろうか。風になっても、海になっても。太陽が海に沈んでいく。声を上げてお母さんと吼えながら海を見て泣いた。そして、天を仰ぐ。祈るように。煙はとうに消えた。風は、海に向かって吹く。バニラの匂いとともに。
お母さん。どうか、見守っていてください。どんな姿になっていたとしても、私はあなたの娘です。最期の最後まで、私はあなたの娘です。
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