見出し画像

bathroom__3-2

Bye bye
Mr. Mug I don’t know was I dreaming?
When I thought I heard you say"we were in love"

Bye Bye Mr.Mug-the brilliant green


 全てをむしり取られたような姿で中野竜哉は立っていました。かつて彼から感じていた成金のような雰囲気と自信に満ちていた面影など、まるで感じられません。ですが、一瞬で彼だということが分かったのは、あの時よりもはるかにくぐもっていて低くなった声だからでした。
「おい」
 声をかけられた時、赤い色のダウンジャケットを着てくたびれた顔をしていた彼が、眼だけで怒りを抑え込んでいるのが分かりました。今にもぼくを刺し殺そうとしているような顔をしていて、それもそうかと思いながら。ぼくはとうとう来たか、と思いながら冷や汗をたらしている事も悟られないように、顔だけで微笑みました。
「ここじゃ物騒だ。店で飲んでいきなよ。おごるから」
 それはいざというときのためのぼくを守るためのものでした。しかし、彼は一歩も動こうとはしませんでした。それは彼が自分を有利にするための策略でもありました。そう言えば、中野はいつも口喧嘩がうまく、自分を不利に見せて実際には優位に立つということをしばしばやっていたのをぼくは思い出します。彼は、そういう男でした。
 あれだけガッチリとした体つきも、どこかしらシャープになった印象がありました。一回目をそらしてから、ぼくは中野と目を合わせました。目の奥の怒りはぼくへの直接的なことか。それとも、彼女という存在に依存していたからなのか。言葉がいつまでもこぼれてきません。次第に、周りがぼくと中野を避けるように歩いていきます。そうは言っても、場末の繁華街、さほど人がいるというわけではありませんでしたが。
 妻子をかなぐり捨てて、ただ彼女という存在を愛し続けた中野。次第に彼女がやりたいことに振り回され、次第にその中で狂っていく様は滑稽でいささか浅ましいものがありました。しかし、今でも中野は彼女を追い求めている。だからこそ、彼女のことを中野は取り返しに来たのです。彼はもう、彼をかなぐり捨てていたのでしょう。ですが、彼はあのときのような「まるで勝てない」という雰囲気は持ち合わせておりませんでした。それは彼が刑務所の中で過ごし、その中でうらぶれていたからでしょう。
 そんなうらぶれた中野とぼくの姿が浮き彫りになりました。ぼくはまるで彼女のような姿になっていて、ただ中野を眺めています。彼の瞳にぼくが映っていました。次第にズームアウトしていくように中野の姿が目に入りました。彼が昔一番嫌っていた、くたびれたサラリーマンのような男と、彼女のような男。いつか、ぼくもこうなる。そうなったときに、ぼくもうらぶれるのでしょうか。
 かすかに、寒気を感じました。彼女と二人でいたときに感じたあの寒気。中野の殺意から生まれたものではなく。それほど長くないはずの沈黙を破るために、ぼくは口を開きました。
「どうやら、きみとぼくは同じみたいだ」
 笑いながら。誰かに言うわけでもなく、また言葉を続けました。彼の目に純粋な愛があるようには思えないと感じながら。
「大丈夫だよ。きっと、彼女は帰るさ。でも今、ぼくと愛し合っているからね。だから、もうしばらく待っていればいいんじゃないかな」
 そう、ぼくという存在全てを彼女に奪われたその瞬間に。嘘をついた、とは思いませんでした。だからこそ言葉がとどまりました。その後から、中野の見る目が怒りから憐れみの目に変わったのがわかりました。中野が、ようやく口を開きました。
「それでお前はいいのか」
「どういうこと?」
「俺がどれだけ彼女に食い尽くされたのかわかっているんだろ」
「まあね」
 ざわ、と一瞬だけ周囲が騒がしくなりました。けれど、声はそのままかき消されていきます。糾弾するにしてはいささか中途半端で、奪いに来た割には勢いを感じませんでした。ただ、それをあざ笑いに来ただけにしても目が狂っていませんでした。弱くなった、と思いました。強くなるために様々武装していたものを身ぐるみ剥がされて、彼は裸一貫でぼくと向き合わなければならない。ですが、ぼくは彼を嘲笑えませんでした。ぼくもまた、彼と同じように狂ってしまえば。きっと末路はこうだからです。
「でも君は、あの子に全部をあげられなかったんだろ?」
「やったよ」
「何を?」
「金を、物を、機会を。全部、全部だ」
 吼えるようにぼくへと怒りをぶつけた中野の怒りだけがぼくにぶつけられました。
「ねえ、あの子はそれで満足したの?」
 中野はその瞬間に黙りこくってしまいました。彼も分かっていたのです。彼女が決して満たされていたわけではない、ということに。中野は最後まであの手この手を使って彼女を満たそうとしていましたが、それでも最後まで心を落とすには至らなかった。それは彼自身も分かっていたことだったのです。それでも、中野は諦めることが出来なかった。
 やがて、恋に狂った彼は自らの身を崩して警察に連れて行かれるという末路を遂げることになってしまったのです。彼にぼくがまた、重なって見えました。だめだなあ、とぼくは思います。ぼくもまた、同じように狂っている。あの時の中野と同じように。彼女という存在に依存しなければ何一つ出来ないほどに。共に暮らすようになってから、ぼくは欠点が多くなっていました。中野も通った道でした。恐らく、ぼくと別れた後も彼女は多くの男をそういう風に仕立て上げていくのでしょう。果てた中野と果てる前のぼく。でも、ぼくはもう、そうすることでしか生きることが出来ませんでした。天を仰ぎ、中野は繁華街の外側へと向かおうとしました。何か思いつめたかのように。
「どうしたの、駅はあっちだよ?」
 促したときに彼はぼくを睨み、そのまま踵を返しました。今にも殺してしまいそうな顔をして。
 小さくなっていく背中を眺めながら、彼女に思いを馳せました。何日もうろついていたような様子の彼は、きっと彼女の働く姿も眺めていたはずです。彼は自らのすべてを奪っていった女をどういう目で見ていたのでしょうか。それさえわからないまま、彼はどこかへと消えていきました。そして、それが中野竜哉を見た最後でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?