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小川博之「届かなかった襷」

あと一歩届かなかった。だが、前年健闘を見せた国士舘大学は連続出場記録は途切れることないまま、今年の予選会へと向けてすでに再始動している。それを支えるのは、小川博之監督。

現在コーチを務める添田正美さんと入れ替わる形で就任したこのシーズン届かずに終わったものの「また帰ってきたい」と宣言。2年生ランナーを多く配置した復路こそ19位だったものの、この失敗を生かしてくれると確信しての采配だっただろう。

かつて国士舘の不遇のエースでもあった彼にとって、見据えているのは「2年後に届く襷」かそれともさらなる高みなのか。

一度も箱根路を走ることができなかった

小川監督は現役時代、一度も箱根駅伝を走ったことがなかった。

同級生では早稲田大学で活躍し北京オリンピック・世界陸上ベルリン大会でマラソン代表として出場した佐藤敦之さんがいて決して目立つことはなかったが、ユニバーシアードでは10000メートル5位に入り、関東インカレでは5000メートル優勝と選手としての能力は学生随一。

しかし、小川監督に続く選手が皆無だったのだ。
チーム内2番手の選手とは10000メートルの自己ベストで1分以上差があり、自らが追い求める練習をすると誰もついてこない。そのためにどうしても小川監督頼みのチームとなってしまって予選会では悉く敗退を喫してしまう……。

そういうことが多くあった。

「自分1人が強くなることを考えたら、1人で練習をした方が近道でした。でも、箱根駅伝は小学生の頃からの夢でしたから、1回でもいいから走りたかった。そのためには1人で練習するより、みんなで練習する方が全体をレベルアップできました」

http://www.rikujouweb.com/hakone/yosen2000ogawa.htm

チームのため。そのために選んだ選択だったが、箱根を走ることが叶わないまま大学を卒業後、2012年まで現役を続ける。その後は各実業団での経験を積んだ後2020年より国士舘大学の助監督としてチームに復帰していた。

この1年、何を学んだだろうか?

就任当初、小川監督は「予選通過も厳しいかなと思った」と感じていたという。しかしその中で引っ張り上げてくれたのは卒業生でもあった4年生たちだった。

1年生から4年生まで縦割り班を組み、各チームで設定タイムやその達成にはどんな練習が必要か考え、話し合って実行するプロセスを作っています。

https://www.kokushikan.ac.jp/spokon/news/details_17866.html

長距離の選手には「学ぶ力が特に重要」と語る小川監督は、選手たちが主導となってどうすればいいか解決させることを特に重要視する。そうした面から選手たちの自覚を促し、それらが各記録にもつながるようになってきた。

結果として箱根駅伝では総合19位に終わったものの、一方で小川監督はこの1年を「育成と挑戦」をテーマに掲げて活動。復路に2年生の選手を多く配置する采配を取るなど、様々画策をしている様子だ。

この失敗をもとに小川監督は将来有望な選手たちに貴重な経験を積ませようとしたのかもしれない。

中長期的な目標として「今の1年生が4年生になる頃までのシード権獲得」と語る小川監督にとって、ここで繰り上げスタートを経験したことによる選手たちの「学び」と「気づき」をどう落とし込んでいくのかが、楽しみでもある。

「挫折」を知っているからこそ

あと少しタスキをつなげることができなかった国士舘大学。タスキをかけて走ることができなかった小川監督。国士舘大学の関係者にとって、箱根駅伝での記憶は苦いものが多いのかもしれない。

しかしその「苦さ」を知っているからこそ、小川監督は選手たちに様々学んでほしいと感じているのだろうし、選手たちも選手たちで今様々な気付きを得ている最中なのだろう。

すでに下級生では自己ベスト更新が多く出ており、選手たちの成長も著しい。しかし、他大学も同じペースでぐんぐん成長をしつつある。激戦区となっている100回大会の予選会において、現状さらなる成長を求められる。小川監督にとっても、国士舘大学にとってもさらなる成長を求めていく必要があるのだろう。

それを果たすことができたとき、鶴見中継所でつなぐことができなかった襷を次こそは。大手町へと運ぶことができると私は考えている。

「挑戦の年」と位置づけ、挫折を知ったこの大会を次の立川そして……箱根路を駆けるとき。得たものを学びと変えレースに展開させられた時に、必ず。ではどうやって?

それが今から私自身も国士舘大学の駅伝が楽しみでならないのだ。

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