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近道はどこにある?
手を引いてて、甘い匂い

やられちゃった女の子-小島麻由美


「あなたは、もう私無しでは外へ出られないわね」
 彼女はそう言って微笑みながら、ぼくの頬に乗せたファンデーションを伸ばしていきます。お互いの距離が近づいています。でも、それはいつものことで何も特段驚くような事でもありません。
「そうだね」
 とぼくが返して、そこで会話が途切れました。それで問題はありませんでした。なぜなら、会話が途切れてしまうことは日常的な事なのですから。顔を動かすことが出来ずに、ただひたすらに遠くにある壁紙と彼女だけを眺めることしか、今のぼくにはできません。音が無い世界から聴こえてきたのは、スマートフォンのアラームもテレビのワイドショーの声。それは隣の部屋からのものであることをぼくも彼女も知っています。だからこそ、必要以上の言葉は何もありません。何かを発しても、白い壁紙に何もかもが吸収されてしまいそうです。
 アイメイクまで一通り終えて、リップまで塗り終わると彼女は笑顔になって、ぼくに鏡で見るように促します。そこには、本当に化けてしまったぼくがそこに居て、優しく両肩を手のひらで触れている彼女が微笑んでいます。
「今日もかわいくなったね」
「うん」
「気に入った?」
「もちろん」
 彼女のほうに顔を向けると、目の奥で彼女は笑います。
「良かった」
 そう言って、また言葉が途切れました。感情の温かみがあるはずなのに、どこか声の奥底から感情が見えなくなってぼくは戸惑ってしまいます。

 言葉を残し彼女の手が肩から離れました。そのまま彼女がベッドルームから出て行ってしまうと、部屋の中に静寂が訪れます。そこにはまるで、ぼくとは思えないほど、綺麗な姿をしたぼくが映っていて。細く、切れ長な目は大きく見せるようなアイメイクとキラキラしたアイシャドウがあしらわれていて、頬はまるで恥ずかしいことを突き付けられた時のように赤らんでいます。毛穴一つ無いぼくの顔。鏡に映っているぼくがぼく自身である、ということは分かっていました。なのに、どこかそこにいるのは誰か別の人間のように感じられて。
 3年前の冬、寒空の下でようやく一つになることができてから、今に至るまで。表情のトーンは一つとして変わっておりません。確実に変わったのは、ぼくが着々と女になっている、ということでした。
 かちり、という音が遠くから聴こえました。それは彼女がカセットコンロを回す音。そういえば、かちりという音を聴くたびに、先ほどまでバスルームで切り取られた世界で乱れたぼくたちを思い出します。二人であれだけ乱れ、息を荒くするほどに求め続けていたとは思えないほどに。ぼくは彼女という存在で満たされていたのです。

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