見出し画像

bathroom__3-1

許さない許さない許さない許さない許さない

snow irony-maison book girl


 中野竜哉が出所したことを知ったのは、一度目の冬の始まりでした。
 その時には玄関から男物の靴が無くなり、彼女が履くために買ってきたパンプスにヒール、ブーツなどが置かれていて、その横にぼくが履くためのヒールやらパンプスやらスニーカーやらブーツやらと所狭しに並んでありました。その様はさながら上空から見たビル群のようにもみえて、ただぼくは、ここにコンクリートジャングルはないと思いながらその様を見ると苦笑いするのでした。部屋のクローゼットにも、まるで靴屋か何かのように陳列されていて、ハンガーにはぼくと彼女が着る服が洋服屋のように吊るされています。
 その中で、ぼくと彼女は今と同じように生活をしておりました。唯一違うことと言えば言えるのはあの時、彼女はあからさまにスマートフォンを見ていたという事でしょうか。そして、あの時よりもぼくは確実に彼女に絆されることが多くなっておりました。指と指が触れただけで、目と目が合っただけで。たったそれだけのことなのに、ぼくは彼女に瞬間的に束縛をされ、身動きが取れなくなってしまうのです。それはぼく自身も望んでいることでもありました。そうやって、ぼくは与えられ続けたまま何かを返すこともできないまま、ただ黙々と静かに昼を過ごし、夜は二人で駆け出していく生活が続いておりました。飲み屋で働き、未来のことなど考えずにただ二人だけで黙々と過ごす日常。
 鏡でぼく自身を見ると、また彼女に近づいている。そのように感じていました。ぼくが彼女と同じような服や靴を履いていても、一切恥じらいを持たなくなっていて。かつかつとヒールを鳴らしながら歩くことも、何のためらいもなく彼女の下着を穿くことも。冷や汗一つ、かくことなく。

 時折にぎやかな街へと出かけては、何度かその様を昔の知り合いに見られて赤面したこともありましたが、次第にぼくという存在が失われて行けば行くほど、その姿を受容できるようになっているのを感じていたのです。確実に彼女と同じ存在へと変貌を遂げていく自分自身。拒絶さえしないまま変わって行くぼくという存在を彼女が愛してもらうことで、自らを満たしていたのです。そして、それで良いと思いました。それが続くのならば。
 だからこそ、中野が出所をしたという話を聴いた時に、近いうちにぼくたちは破綻してしまうかもしれない、と感じたのです。中野は力づくでぼくから彼女を奪い取りに来る。その予兆を根拠もなく感じ取っておりました。

 それからすぐ後でした。中野竜哉がぼくたちの住む街へと足を運んでいることを知ったのは。誰かが彼に告げ口をしたのかもしれません。ですが、切り取られたぼくたちの世界に踏み込んでくることくらい、中野ならば容易だろう。そうぼくはふと感じたのです。そうなったとき、ぼくは果たして彼女を守ることができるのだろうか。それとも、彼女に守ってもらうことになるのでしょうか。
「何を考えているの」
 そう訊かれた時、鍋はまた沸々と煮立っているのに気が付きました。
「何を考えているの」
 もう一度訊かれて、ぼくはようやく中野が最近ここらをうろついているとだけ答えました。低くくぐもった声だったはずなのに、酷くクリアに聴こえました。ぼくは、声も「ぼく」で無くなり、彼女と同じような声になっているのが分かります。
「そう」
 そのようにだけ答えて、彼女はそっけなく会話が閉じました。
 恐らく破綻が近づきつつあることを、ぼくと彼女はお互いに分かり合っていたのかもしれません。だけれど、それを繋ぎとめるために何とか必死に食い止めていたのは、ぼくも彼女も同じだったはず。
 なぜなら、そうしないとぼくたちはお互いを補うことが出来ないから。たったそれだけの理由でした。とはいっても、彼女はおそらく補う相手はぼくでなくても良い。ぼくである理由はないと思ったのです。だからこそ、彼女だけは生きていてほしい。そう感じたのです。だから、口をまた開きました。
「逃げても良いんだよ。きみだけでも」
 それはぼくが「男」としてできる最低限のこと。鍋が煮立ち、その湯気の先に彼女の目が見えました。
「分かってる、そんなこと」
 それからマスカラを付けた目を伏せて、寂しそうに彼女は返しました。
「だけど、どうして私がここから逃げないか知ってる?」
「どうして?」
 返すと、君は小さな悲鳴を上げるような声で言葉を走らせました。
「あなたが好きだからよ。あなたと居ることに意味があるんだから」
 それは哀切で、身を切るほど悲痛な告白でした。分かっていたことではありました。だから、ぼくも謝りました。
「分かった。ごめん。もう、言わないよ」
 それだけ返して会話がまた途切れました。それはお互いに言いたいことがある中での不穏なとどまり。彼女はぼくが好きなだけでその時が来ることを分かっていたはずでした。だからこそ、ぼくも本能的に声が出てしまいます。
「でもね、怖いんだ」
「何が」
「きみが居なくなることが」
 彼女はそれを聞いて微笑みます。
「大丈夫よ」
「どうして」
「だってきみは、居なくなったりしないよね?」
 それだけ言って。その目は涙に濡れて居るように見えて、ただ充血しているようにも見えて。それは愛しているという時間を犠牲にした結果なのでしょうか。そして、これからも愛し続けるという意味があるのでしょうか。頷くことを忘れていました。ですが、心の中では強く同意をしていました。すぐにでも抱きしめて、バスルームに行きたいと思いました。そうすれば、また二人の繋がりをしっかりと取り戻せるような気がしたのです。

 なのに、ぼくは彼女がどこかへと行ってしまいそうになって寒気を覚えます。その恐怖から、どうしても逃れられないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?