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強く抱きしめるこんな美しい夜は
2度とは来ないかも しれないから
まぶたの裏に焼きつける姿
終わりない口づけ交わり待つ朝

100Millions-舐達麻


 中野竜哉が死んだという話を聞いたのは、それからすぐのことでした。最後に目撃したのがぼくだったということで、警察から事情を聴かれ、ぼくも出来得る限りのことを答えはしましたが、とにかく死んだということだけは確かでした。そして、それが幸福な死に方で無いということも、間違いの無い事でした。

 なんでも、発見された時の遺体には射精した跡があったのと、死に化粧のようにファンデーションが塗られていたのだそうです。あれもこれもと訊かれていく中で、ぼくは洗いざらい話すことができることだけを丁寧に伝え、それまでの関係性なども訊ねられたのでできる範囲で答えて警察から解放されました。彼女についても訊かれましたが、かつては愛人だったが今は分からないとだけ答え、警察は怪訝そうにその質問へと曖昧に頷いて帰りました。警察はぼくと彼女を疑っているようでしたが、納得したのか「またご協力いただけますと」と言われお暇をしていただくことになりました。
 それから、警察が来ることはありませんでした。

 話をしている間も、帰った後も。彼女と早く世界から切り離されたいと思いました。中野が彼女に殺されたとは思いませんが、それはそれであるのかもしれないとも思いました。想像することは無意味でした。彼女が手を染めたとしても、どうでも良いことだったからです。怖かったのです。このまま彼女が居なくなってしまうのではないか。想像しただけでぼくは震えました。か細い絆でしたが、その絆に縋り続けているぼくはもう、彼女無しでは生きられませんでした。きっと夜には帰ってくる。それを信じているはずなのに、どうしてなのでしょう。彼女が帰ってこない気がしてなりませんでした。

 隣の部屋では夕方のニュース番組が終わってバラエティー番組が始まろうとしていて、部屋には繁華街のネオンしか無くて。目を閉じると浮かび上がるのは、色や音や匂いで。全部それは彼女から生まれてきたものでした。まるでアシッドでもやっているかのように何かが浮かんでは消えて、音符が跳ねてぼくを避けていくかのように。バレリーナのように回って跳ね、ぼくを通り過ぎていきます。急斜面から一気に滑り落ちているかのように、回って跳ねるバレリーナを目に焼きつきました。雪の降っているスキー場のようです。ぼくの眼前へと襲ってくるのに、雪が避けていくかのようでした。どこからともなくプリマドンナがやってきては消えていき、また現れては消えていき。ぼくがぼくから発せられようとする言葉が、一つの単語さえも溶けて行くようで前のめりになりながらまた消えていきます。それからまたぼくは再生するのに、そのたびにぼくは自分が何者だったのかと振り返ります。
 ぼくは誰なんだろう。もうすぐ、ぼくはぼくで無くなります。でも元のぼくはいったい誰なんだろう。あの人よりすごくて、あの人たちよりも優れていて、あいつなんて目じゃなくて、もしかすると神の子で。それとも最終的に丸めて捨てられるティッシュのようなもえるごみの存在で。否、そうじゃない。本来あるべきぼくという存在はそもそも性別から異なっているかもしれなくて、性別をも超越しているかもしれなくて。それでもぼくという存在で。ぼくは誰なのか。一つの生命体であるぼくは彼女にさえ何かを与えることさえも出来ていないのではないかと戦慄するのです。いくら優れていても、何も与えることができていないぼくは結局「いま」というこの時間をただ消費しているだけにすぎません。それに対して恐れが出てこないのです。
 ただ、彼女がどうしても必要でした。彼女でなければいけないのです。ぼくはぼくが分からなくなっているのですから。誰かを愛することが分からない。誰かを大切にして、与える方法が分からない。ぼくは分からない。誰かを好きでいるということが、全く分からない。
 愛の言葉を喚いていました。もしかすると、隣の部屋に聴こえているかもしれません。それでも構わないと思いながら喚き続けました。早く、この世界から切り離されてしまいたい。だから思うのです。帰ってきて、と。喚きそうになる声を必死に押し殺しながら。

 気が付くと、彼女が帰ってきていてぼくを不思議そうな顔で覗き込んでいました。
「なんで泣いているの?」
 そう言ってぼくの頬を拭い、言葉を続けました。
「きみは変だなあ」
 彼女は笑います。その時、安堵からかぼくが解れていくのがわかりました。彼女を見ているだけなのに。そして、それは彼女も同じでした。ぼくを見ていただけなのに。そして、安堵してしまったぼくはそのまま彼女を抱きしめていました。あのときとは違うドラマティックなハグ。ハグした瞬間にぼくの心は解けきり、彼女は幸せそうな顔でぼくを眺めました。
 この瞬間が終わってほしくない。それが怖くて、世界からぼくたちが切り離されればいい。ずっとずっと、このままで。ぼくにとっての望みはそれだけでした。その様は誰よりも浅ましく、そして誰よりもぼくはぼくを犠牲にしていました。
 だからこそ、いつか忽然と彼女が居なくなるときが来る、と思えてなりません。その恐怖が足音を立ててやってくるのを、感じながら。

 そして今、彼女は素知らぬ顔で鍋を食べていました。ぼくもただ無言で食べています。
 互いに循環が出来ているのです。当たり前のように行うスキンケアにボディケアも。最後にぼくたちはぷっつりと切れてしまいそうなほど細い糸だけで繋がれている絆にまだ依存しているのです。ルーティンワークとしてただ淡々と一日の中に組み込まれていくその日常の中で。
 そして、その時以上にぼくは彼女へと深く吸い込まれようとしていました。彼女は今も鍋を作り、メイクをしてくれて、そしてぼくを着せ替え人形のように服を着させます。姿形が彼女そのものになってしまうまで。

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