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水曜サンデー

大学時代の後半は、完全に昼夜逆転の生活になっていた。

夜の11時からテレホーダイタイムに入るのだが、11時台は回線が混みやすいので、テレビの深夜番組(「ナイトinナイト」など)を見終わった深夜1時あたりからネットを始める。そのまま3時くらいまでネットをやって(時には朝まで)、そこから銭湯に行く。どういうわけだか知らないが、少し歩いたところに朝5時までやっている銭湯があった。スーパー銭湯ではなく、浴場組合の公衆浴場なので、300円くらいの銭湯価格で入れる。朝5時までやってる銭湯はそこ以外に見たことがない。

で、明け方帰ってきて、めざましテレビを見て寝る(1限から授業があるときは徹夜)。昼過ぎに起きて活動開始。あまりにもやる気がないときは目覚めたらもう夕方になっていて、自己嫌悪に陥る。そういう日々だった。

そういう生活の中でのちょっとした楽しみ、それが立ち読みだった。火曜日の深夜に銭湯に行き、帰りにローソンに寄る。すると、水曜発売の少年マガジンと少年サンデーが店に並んでいて、それを一通り立ち読みしてから、朝食のロールパンなんかを買って帰る。

そのローソンの深夜帯は、いつも同じ人がワンオペで回していた。50代後半から60代前半と思われる、頭が全部白髪のおとなしそうなおじさん。オーナーなのか、あるいは勤め人だった人が定年後に始めたバイトだったのか。朝4時台なので他に来る客もなく、俺は静かに立ち読みをし、おじさんも静かに早朝作業をする。そういう空間だった。

そのルーティンが半年ほど続いたころ。

いつものように銭湯帰りにローソンに寄ると、たまたまその日はマガジンとサンデーがまだ入荷していなかった。ちょっとがっかりしたが、わざわざ待って立ち読みするのもさすがに厚かましいので(そもそも立ち読みのルーティンが厚かましい)、ロールパンだけ買って帰ろうとしたら、レジでおじさんから声をかけられた。

「サンデーでしょ?」

ずっと通っていたものの、それまで「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」という業務用の言葉しか交わしたことがなかったので、突然の提案にたじろいでしまった。

「あっ、えっ」
「ごめん、今日遅くなってるみたいで。もうすぐ来ると思うからさ、ちょっと待っててよ」
「でも」
「それまで他の雑誌、読んでてくれていいから」
「…………」
「サンデー、読んでいきなよ」

立ち読みを公式に推奨されてびっくりしたのだが、ちょっと強めに引き留めるような言葉が出たことにもびっくりしてしまった。そのまま雑誌コーナーに行き、じゃマールとか、クールトランスとか、GON!とか適当に手に取って読んでみたのだけど、思わぬ展開にソワソワが止まらず、まともに記事を読めなかった。

30分もしないうちに、マガジンとサンデーが入荷してきた。おじさんは雑誌コーナーの床にマガジンとサンデーの束をどさっと並べて、梱包の紐を取り、俺に「お待たせ」と言った。

なんともむずがゆい気持ちだった。もちろん立ち読みしたかったんだけど、店員から堂々と勧められると、ばつが悪いというか。親からエロ本を渡されて、「さあ、思う存分オナニーしなさい」と言われる感じに近いかもしれない。

外形的には「入荷を待って立ち読みした」という話でしかないのだが、その出来事はやたら心に刺さった。仮に昼の時間に雑誌が入荷したとして、いつも立ち読みしている客に「さあ読んで」と言うだろうか。絶対言わないと思うんだよな。想像でしかないけれど、おじさんにとって俺は、深夜4時台という「なんともいえん時間帯」を共有していた相手……ドンピシャで表す言葉が見つからないけど、「客以上友達未満」の範囲にある人間だったのだと思う。

ものすごく自分の存在を認められた気がした。

親密な相手に存在を認められるのはわりと当たり前だけど(それはそれで容易ではない)、それ以外の、親密空間の大外にいる人間から存在を認められると、余計に感激してしまうというか。

「感激のあまり、立ち読みしながら泣いた」なんてことは、さすがになかった。でも、それまで経験したことのないタイプのうれしさがずっとこみ上げていたのは確かなのだった。いまだにそのときの感情の手触りを、リアルに思い起こすことができる。

寂しかったのはおじさんよりも俺のほうだったのかもしれない。

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