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「香川1区」を見て、これは「政治は言葉である」vs「政治は力である」の戦いであると思った。

先日、有楽町のヒューマントラストシネマで、大島新監督「香川1区」を見た。

前作「なぜ君は総理大臣になれないのか」と同じく、香川1区の国会議員・小川淳也(立憲民主党)にスポットを当てたドキュメンタリーである。前作はまるっと小川淳也メインの映画だったが、今回は2021年の衆院選・香川1区の動向を追っているため、対立候補である平井卓也(自民党/元デジタル庁大臣)とのコントラストがくっきりと出ている。

ゆえに、そのコントラストによって(前作と地続きであるものの)今作のほうが「日本の民主主義の現在」を浮き彫りになっている感があった。

小川淳也と平井卓也。この二人の違いは何か。

「立憲民主党と自民党」「野党と与党」「リベラルと保守」「比例区選出と小選挙区選出」……そういった違いはこの場合、表層に過ぎない。この二人には、もっともっと本質的な違いがある。

小川淳也は「政治は言葉である」を地で行き、
平井卓也は「政治は力である」を地で行く。

小川淳也は一人一人に語りかける。言葉で説明し、言葉で人に訴えることが彼の政治活動の基本である。対話も重視しており、有権者と語り合う「青空対話集会」をたびたび開催している。言葉で相手を説得しようとするのが行き過ぎて、(保守なのに小川を応援している)田崎史郎にものすごい勢いで食ってかかったりもする。焦りからくる怒りの発露ではあったが、あの場面の言葉には魂がこもっていた。体重が乗っていた。娘が「お父さんはたとえ自分のアンチであっても、話をする機会があればちゃんと相手の話を聞く」と自信をもって答えていたのも印象深い。あと、いちいちYouTubeで自分の見解や釈明を述べる。「いちいち」と書いたのは理由があって、議員になった最初のころ「50歳になったら議員をやめる」と言ってしまったことをずっと気に病んでいて、周囲からは「そんなの今さら誰も気にしてない(覚えてない)でしょ」とたしなめられている。でも本人は「いや、でも言ったことに対してはちゃんと説明しないと」ということで、YouTubeで「50歳になったけどまだ続けます!」といちいち報告する。しかしその「いちいち説明する」感じが彼らしいとも言える。

平井卓也はというと、街頭演説の初日に人がたくさん集まっているのだが、よく見るとスーツ着た男性ばかり。つまりその聴衆は「動員」されてそこにいるわけである。親族が地元紙・四国新聞のオーナーであるため、記事でも手厚いバックアップがある。平井がデジタル庁大臣に就任した翌日は、じつに6面にわたって記事が掲載された(小川淳也が維新の候補に対して立候補取り下げを要請した件については言わずもがな)。彼の選挙事務所の天井には、あちこちの有力者からの推薦状が、天井に隙間なくびっっっっっっっしり貼られている。あの貼られっぷりからすると、まだまだ貼りきれてない推薦状はあるんじゃないか。あと、これは見た人にしか通じないけど、市役所横のビルのアレも「政治は力である」の発露だろう。

つまりこの映画は、党派とか政策とか、そういうものを超えた「政治は言葉である」vs「政治は力である」の戦いを描いたドキュメンタリーなのだと思う。

「政治は力である」というと、いかにも「首根っこつかまえて無理やり言うこと聞かせる」みたいなイメージを抱いてしまうが、実態はそうではない。わりとそれが選挙民に受け入れられている。劇中の一般市民のコメントを聞いていると、「どうせそういうもんでしょ」「もともとそうなっているから」みたいな感覚で、その「力」を受容しているように見える。諦念とも少し違うのかもしれない。取引先の会社から「うちの会社が提携しているこのクレジットカードに入ってよ」と言われたら、特に逡巡もせず「わかりました」と言って加入してしまう、あの感じに近いように思う。

よく言えばドラマティック、悪く言えば「編集でそうしているんじゃないの?」とつい疑ってしまうくらい、両者のコントラストがくっきりしているのだが、監督によると「本当に実際そうなっていた。フィクションだったらむしろ、こういう描き方はしない。あまりにもベタすぎるから」ということらしい。

それはつまり、外部の視点(カメラ)がないと当事者がまったく気づかないくらい、本来は動態であるところの民主主義が、カチコチに凝り固まっていたということなのだろう。

その凝り固まった土壌に、「政治は言葉である」の小川淳也が切り込んでいく。前作ではちょっとドン・キホーテ的な哀愁が漂っていたが、徐々に理解者・支持者が増えてきて、流れが変わっていく。その過程をカメラはとらえている。

政治って──あるいは選挙って、と言い換えてもいいが──やっぱり言葉の積み重ねによって構築されるべきものなんだな……という感情を強く持った。理屈ではもともとそう思っているけれど、それを地で行く映像を見せつけられたことで、かなり気持ちをわしづかみにされてしまった。あまりにも小川淳也が愚直だから。

だからさっき書いた「政治は言葉である」vs「政治は力である」の戦いというのは、さらに言うと「愚直な原点回帰」vs「どうせそういうもん」の戦い、と言い換えることもできる。

で、その「どうせそういうもん」の土壌は、香川1区だけではなく全国各地に広がっている。これは若干の飛躍かもしれないが、その「どうせそういうもん」がびっしり根を張ってしまったことが、この国の停滞を招いた一因になっているようにも感じる。

小川淳也をメインに扱っているから、立憲民主党を支持するのが正しいとか、そんな単純な話ではない。ゼロベースで考えた結果、支持政党が自民党になるなら、それでいいのだと思う。考えること、対話することを放棄して、「まあどうせそんなもんでしょ」で投票してしまう(あるいは投票に行かない)政治観でいいの?と問うているのが、この映画なのだと思う。

現職で地盤も安定していたはずの平井卓也は、選挙戦の途中で情勢が不利なことを察して焦ったのか、「なぜ君〜」をPR映画だと決めつけてネガティブキャンペーンを張り始める。さらには本当に物理的な「力」まで行使し始める。「政治は言葉である」の人が支持されたことで焦って、それで自分も言葉で戦う側になるのではなく、「政治は力である」にさらに依存する形で戦ってしまうのが、平井卓也なのだなと思った。

平井卓也は地元のメディアグループの一族で、自身も20代にして西日本放送の社長に就任している。つまり若いころから「支持されるのが当たり前」「何言っても拍手が起きる」という環境で育ってきたわけで、「自分に興味のない人間を言葉で振り向かせる」というモチベーションがめちゃくちゃ低い環境にいたということになる。地盤がめちゃ強いというのは有利ではあるが、その地盤の強さゆえに、結局人を動かす言葉を獲得できないまま今に至ってしまったのではないか……と思ってしまった。

言葉が人を動かすみたいな話をさんざんしているが、劇中でもっとも心を動かされたのは小川淳也ではなく、実は彼の長女の言葉だった。すでに知られている通り、小川淳也は小選挙区で当選、平井卓也に勝利するわけだが(平井は比例復活)、その勝利に沸く選挙事務所での長女のスピーチに、涙があふれてしまった。

話し方がエモーショナルというのもあるのだが、しかしその言葉は小川淳也以上に本質を突いていた。で、たぶんそれは俺自身も薄々感じていたことで、その思いが彼女の言葉に一気に呼応して泣いてしまったのだと思う。

選挙戦の熱が伝わってきたり、意図せずしてジャーナリズム的な視点も入っていたりして、政治という地味な素材を扱っているのにめちゃくちゃ面白いやん、という映画なのだが、でも本質はやっぱり「政治は言葉である」vs「政治は力である」の部分に凝縮されている。

「政治は力である」もおそらく政治の一側面ではあるのだと思う。でも本来それは「政治は言葉である」と両輪であるべきはずなのに、「政治は力である」に依存して、「政治は言葉である」を失ってしまった……それが現在の民主主義の状況なのだと思うし、その「政治は言葉である」vs「政治は力である」の代理戦争の舞台が、「香川1区」なのだと思った。


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