わたしの幸せを貫きたい

結婚生活とは、自分よりも相手の幸せを願うことらしい。

相手の幸せが自分の幸せなんだって。

彼氏と別れた日、自転車を漕いで古巣のバイト先(ほぼコネで入ったこともあり、本当に可愛がられていた)に行った。たまたま会ったのはおじさんの社員さんだった。良い人なんだけどね、と周りに言われるタイプの、まあちょっと言葉で損する不器用なタイプのおじさん。でもその時のわたしにとっては一番良かった。自分から遠い存在のおじさんになら、あけっぴろげになんでも話せたから。おじさんにとっては大変迷惑。

その時に言われた。結婚生活とは、自分よりも相手の幸せを願うことだって。自分の幸せを追い求めることに限界はないから、いつか辛くなるんだって。

わたしは納得した。そうだよなって。わたしより長く生きているおじさんが言うんだから、絶対正しいに決まってるって。でも心の中では、幸せになりたいわたしが叫んでいた。

わたしは、わたしの幸せを掴んではならないのか。

もしも相手と価値観が違いまくっていたら、相手の幸せがわたしの幸せになるのだろうか。どちらかを幸せにするのに、片方が我慢しなければいけないのだろうか。

「もしも争いのない未来 誰かが堪えてたら意味ない」わたしの大好きな『46億年LOVE』のフレーズだ。誰かが堪えれば穏やかな日々は簡単に続く、でもその未来に意味はない。それに、相手の幸せが自分の幸せなら、相手がいなくなった時のわたしの幸せって何になってしまうんだろう。

わたしは、わたしの幸せを手放して良いのか。

わたしが幸せだと感じてきたもの、わたしが幸せになるために手に入れたいもの、それは全部全部かけがえのないものだ。わたしは誰かのものじゃないから、その幸せを譲ることなんてできない。反対に、誰かの幸せをわたしが叶えてあげることもできない。

わたしにはわたしの、あなたにはあなたの幸せがある。もちろんあなたのことを思いやりはするけど、わたしたちは違う人間だから、幸せにすることなんてできない。

わたしの幸せは、わたしが掴むものだ。

今日は1ヶ月ぶりに、家でゆっくりした。部屋の片付けをして、掃除をして、Twitterを徘徊して、ハロプロの曲を歌い踊って、レインボーコントを見ながらゲラゲラ笑って、スーツをクリーニングに出して、落書きをいっぱいして、近所のドラストで同級生の妹が働いているのをみて時の流れを実感して。

わたしは思い出した。わたしの幸せって、こういうことだった。繰り返す平凡な日々を、少しずつの好きで塗り重ねていくことだった。こうやって心穏やかにすぎていく日々を、幸せを、わたしはどこに置いてきてしまっていたのだろう。

このありふれた感性は、恥じるものじゃない。

いつの間にか捨ててしまっていたわたしの幸せを、わたしは大事にしていかなければいけない。それはいつかパートナーができたとしても、絶対に揺らぐことのないものだ。

わたしは、何よりもわたしの幸せを、一番に願いたい。わたしを幸せにできるのは、わたししかいないから。

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