見出し画像


 障害とは 人が一人ひとり属する「相対的な状況」のうち、当事者を「生活不適応」たらしめるものをいう。


 まず、私達は一人ひとりがそれぞれの「状況」の下生活をしている。(人は皆、常に最低1つの、大抵の場合 複数の状況の中にいる。) この状況は決して絶対的なものではない。なぜなら、この状況とは その人の「特性」と その人の「生活」と その人が生活する「社会」という3つの要素が相互作用して生まれるものだからだ。
 これら3要素のいずれの違いによっても、状況は変化し得る。例えるなら、3色の絵の具を混ぜて生まれる色が 3色いずれの変化によっても違い得るように。ここで強調したいのは、人が属する状況がすべて相対的であること、すなわち、3つの要素(=当事者の特性・生活・社会)が互いに影響し合って生じることである。したがって、絶対的な状況は存在し得ない。

 このような性質の状況であるが、大きく3つに分類される。
 1つ目は「障害」だ。これは状況のうち、当事者を「生活不適応」たらしめるものをいい、この障害の下生活する人を「障害者」という。 2つ目は「才能」であり、それに属する人を「生活適応」たらしめる状況を意味する。この才能の中にいる人を「天才」と呼ぶ。 最後3つ目は「個性」だが、これは状況のなかで 障害にも才能にも当てはまらないものを指す。つまり、当事者の生活適応に関して プラスマイナスいずれの働き掛けもしないものだ。この個性に属している人の呼称は特にない。
(余談となるが、これは人が皆例外なく、少なくとも1つ以上の個性の下で生活するためである。言い換えれば、個性に属することは 人として普遍的な性質であって 特別なことではないため、特別な呼び名もないのだ。)


 さて、障害に話を戻そう。

 上記の通り、障害とは3要素の相互作用による状況の一種である。したがって、これらの3要素の変化一つひとつが 障害の性質と程度を変化させ得る。どれほど遅く漸進的な変化であっても、すべての障害は変わる可能性がある。
 人が属する状況のいずれもが 場合によっては障害となり得るのも、ひいては あらゆる人が障害者となり得るのも、その可能性が故だ。絶対的な健常/健常者もあり得なければ、絶対的な障害/障害者も存在し得ない。これが「障害の相対性」である。


 終わりに重ねゞゝとなるが、障害とは障害当事者が属している「状況」なのである。よって、障害は当事者の中ではなく、外にある。また、障害は当事者が持つものでもなければ、ましてや「当事者自身ではない。」
 最後に繰り返すが、3要素(=当事者自身の特性・生活・社会)の任意の変化によって、障害は変化し得る。


P.S.

 私はいわゆる「障害者」だ。障害者手帳も持っているし、障害年金も結果待ちだ。

 診断名は ASD(アスペルガー症候群)と ADD(注意欠陥障害)で、私の脳には これら2つの特性がある。特性の強さでいえば、ASDがより強く メインであり、ADDはASDに比べて弱い。
(ただし、実際の生活において障害を生むのは ADDが主だ。)


 あ、それと、私は自身の性格をスキゾイド的だと思っているのだが、実は これは診断を受けていない。しかしながら、自身の特性とスキゾイドのそれとが 心地よいほどに☆ぴったんこかんかん☆なんだ。
(例えば、一貫した孤立・喜びが少ない・批判に無関心 とかが該当する。そのなかでも特に、他者に全く関心がない・親密な関係を築かない なんか本当にぴったんこ。それ、私だ!!)

 だから、私の性格の説明としては あれこれ話すよりも、ただ一言「スキゾイド的性格」だといった方が(それについて知識のある人にとっては)理解しやすいと思われる。何より、説明が楽。
(ASD特性によって スキゾイド的な性格が表れる場合もあるらしいので、きっと そういうことかなぁ? 多分、そんな気がする。 まぁ、どうでもいいか!? と考えている今日この頃。)


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。