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方法の自己目的化 ―「エスカレーター乗り方改革」に考えること


 半年程前から意識してエスカレーターの右側に立ち止まるなかでふと気が付いたのだけれど、利用者のなかには次のような人もそれぞれの理由でいるのではないかな。

 ・左側にしか乗れない人

 ・どうやっても、
  歩いたり走ったりしてしまう人

 ・急ぐけど、
  階段を使えない人

 etc.

 私が考えるに、乗り方改革の目的はあくまで「一人ひとりに friendly な乗り方の慣習化」だ。したがって、相手の事情を十分慮(おもんぱか)らずに「両側に立ち止まれ!」だの「急ぐなら階段を使え!」だのと、強要するのは nonsense であろう。


 ちなみに目的を実現するための方法が、転じてそれ自体が目的となってしまうことを『方法の自己目的化』という。「エスカレーター両側立ち止まり」は乗り方改革の数ある方法のひとつであって、目的ではないはずだ。

 つまり、上のような一人ひとりの実情に非知性的な暴力は方法の自己目的化そのものといえる。


 『私の知らないことがある』と胸に留めたうえで自他ともに配慮した乗り方ができるといいわね。


P.S.

永久凍結した自身の twitter より、ツイート5つをコピペ↓↓(本文およびツイート相互との関連はありません。)

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 この日本社会における怖いことは、「自分は純血の日本人だ」と考える人がいること。

 そして、同じく本当に怖いことは、『純血の日本人が存在する』と考える人がいること。


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 市役所に勤めていた頃、こちらからの障害者手帳取得の勧めに対して、「障害者になりたくない」という理由でその申請を拒む人がいた。一人暮らしの60代男性だった。もし手帳があれば、公的支援を利用できるし、生活もいくらか楽になるのに… 。
 ただ、役所は支援の提案はできても強制はできない。歯痒(はがゆ)かった。

 この社会を見渡せば、自らの偏見について
「何を考えようが個人の自由!誰にも迷惑掛けてなくね?」
と正当化する人が少なくない。
 しかし、偏見と差別によって生活に不利益が生じる、あるべき選択肢を失う、あるいはいらない苦しみを強いられる人は数え切れない。


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 子どもでも迷子。大人でも迷子。


 先日、出張先での帰路にて災害級の迷子になり、この世は迷宮ラビリンスだった。私が四つ角を一つ通り過ぎる度に世界が破壊と再生を遂げ、私の止まぬ疾走の先には常に新たな現在地が展開した。

 道を教えてくれた方々へ、本当にありがとうございました。おかげで無事、終電に間に合いました。


 今のように「道を尋ねたら教えてくれた」という話をすると、途端に「日本人は民度が高いからね」だの「一方で民度が低い国は卑しい」だのと切り返す人が一定の割合でいる。
 けれど、個人的にはこの「民度」という言葉を用いることが好きではない。これには3つの理由がある。


*「民度」という表現が嫌いな理由 *

①そもそも民度の定義が曖昧なこと。より精確にいえば、その定義が発言者の都合による恣意(しい)的なものであること。

②民度について話したがる人は ほぼ必然的に民度が「高い⇔低い」の二極対比へと話を展開すること。そして、大抵の場合、その内容が 低い (と発言者が思う) 国や人に対しての偏見・差別を含むこと。

③国や人を「民度」という単線的、かつ恣意的な尺度で測る行為そのものが不快なこと。発言者のいう民度は結局、彼/彼女が自らの都合により作り上げた一本の物差しに過ぎないこと。そんな単一の物差しをあらゆる国と人に当てはめる考えがやはり、不快であること。


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 今ふと思ったのだけれど、「産休」も「育休」も「介護休暇」もすべて、名前に「休み」ってあるのが nonsense なんだよ。この「休」の字一つが付くだけで「休んでいる」という偏見が実様に反して纏(まつ)わり付く。
 ところがどっこい!? 休暇を取る人は実際には全く休まないどころか、超絶スーパー裏ボスと対峙して九死に一生の日々なのにさ。

 だから、いっそのこと制度名から変えてみようぜ。例えば…

 ・出産 impossible

 ・育児特命 Dead or alive

 ・ダイハード必殺介護人

とかどうよ?


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 偏見と差別の一切は、


 「わかったつもり」

 「自らの無知についての否認」

 「知らないものに対する怖れ」

 「知ることへの拒絶」


この辺りから生まれるようにも思う。


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【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。