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病気は治すもの。障害は和らげるもの。― 当事者は戦士じゃない。


☆☆☆ メディア頻出表現まとめ ☆☆☆

     『 病気・障害 』編

●足に障害を「持つ」

○見えない病気を「抱える」

●希望を持って、障害と「闘い続ける」

○難病と正面から「向き合う」

●自らの努力と家族や理解者のサポートにより、障害を「克服する」

○1000万人に1人の奇病に苦しむ「悲劇」の少女

●障害とともに「どん底から復活へ」
 ―「奇跡の人生」

○持病から多くのことを「学ぶ」

●生まれ持った障害に「感謝」
 ―「障害者でよかった」

○神が私に与えたものはこの病気だけではない。もう一つはこの疾患の当事者にしかできない「使命」

●コンプレックスだった障害がいつしか彼の「生き甲斐」となっていった。この障害が教えてくれた「生きる意味」

○困難に「打ち克つ」…… 等

このような表現すべてが私は不快だ。当事者の実様とあまりにも乖離(かいり)している。


 まず、病気や障害は当事者自身が持つものでも抱えるものでもない。ましてや、闘うものではない。土台闘える相手じゃない。人を勝手に闘わせるな。
 また、真っ直ぐ対峙したところで何もできないケースが絶対的に多いし、努力で克服できたら何も苦しまない。それに家族や理解者の支えがない場合も少なくない。
 あと、悲劇だの復活だの、奇跡だのと、人の人生をレビューすることは本当に馬鹿々々しい。絶望と不幸の生き様だろうが、愛と幸せに溢れた生涯だろうが、他人には人の一生を評価し得ない。人の生の在り様がどうやって他者にわかるのか。けれども、この社会には人生評論家が余るほどいる。仮に人生を評価し得る人がいたならば、それはその生を生きた自身だけだと思う。
 そして、学ぶとか感謝とか、使命とかよかったとか、生きる意味とか、苦しみを無理やり美化するのはもうやめろ。いい加減、感動ポルノを違法にしてほしい。最早うんざりなんだよ。当事者を聖人扱いするな。

 最後に、困難に打ち克つだなんて、そもそも闘わないんだよ。何度でも書く。当事者は病気や障害と闘わない。だから、克つも克たないも初めからない。お願いだから、人を勝手に闘わせるな。清く正しい伝説の英雄はフィクションにしか存在しないんだ。自己都合的な妄想を他者に強いるな。― 当事者は戦士じゃない。















 当事者は戦士じゃない。




 私は何度でも書く。


『病気は治すもの。

  障害は和らげるもの。』と。


――――――――

 もう一歩深く斬り込むと、冒頭の頻出表現は尽(ことごと)く、その基底にある強大な主義を共有していると感じる。

 その主義とは…

「一切の困難は自ら選択した結果 ― 全部 自業自得だよね?」
 ↓
「だから、(病気も障害も何もかも、) あらゆる困難は個人の問題・個人の責任」
 ↓
「ってなわけで、自分の問題は自分で解決すべき」

というもの。いわば、「自助至上主義」であろうか、自他を一切の支援から断って 個人自身の努力とそれによる解決のみをよしとする思考フレーム。近い言葉に換えれば、「自己責任論」が上に並べた表現一つひとつのベースに根を張る気がしてならない。

 困難の責も解決も、そのすべてを当事者個人にのみ圧し強いるその恣意(しい)的な考えがそれらの背景に透けることもまた、私にとって文頭の言葉達が不快な理由である。


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。