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#5 多くの苦難を乗り越えてきた商社マン時代で培った力

“民間出身”の政治家になるまでをインタビュー

拝啓、皆様。ヒショっちです。
黒崎といえば、“民間出身”が持ち味の1つ。

新社会人としてビシバシと鍛えられる20代を商社という場所で過ごしてきて、そこで培った力を政治家として役立てたいと考えているわけですが…。
一体、どんな会社員時代を過ごしてきたのか気になりますよね?

というわけで、今回は、元バリバリ商社マンの黒崎にインタビュー。その頃の話を聞いてみました。


37歳の時メタルワン大阪支社にて

◾️パソコン通信好きな大学生活を生かした新社会人時代

サラリーマン金太郎ならぬ“サラリーマン祐一”は、ラグビーに明け暮れた学生時代を終えると同時に、日本を代表する大手総合商社である日商岩井(現在は双日)に就職をしました。
外見のイメージからは、サラリーマン金太郎のごとくパワーと気合いで難関を打破していくのではないかという印象を受けますが、実際はどうだったのでしょうか。

黒崎「入社した私が、最初にどういった面で評価されたかというと、実はパソコンを扱えたからだったんです。
こんな大きな体格をしたラガーマンのイメージだから、びっくりするかもしれないんだけれど、パソコンやインターネットに早くから親しんでいて、結構得意だったし、好きだったんです」

入社した年は1999年の20世紀末。パソコンやインターネットが社会に浸透する以前のことでした。

黒崎「大学時代、ラグビー部のホームページを1から作ったことがあって、そのときに覚えたんです。まだ明治大学の公式HPもなく、パソコン好きな人たちがISDN回線でキーキーガラガラとネットを繋ぐ時代でした。
社会に出てみると、ちょうど社内のデジタルインフラが整備されていくタイミングでした。私が配属されたのは、金属部門統轄部という部署だったのですが、毎月業界団体から出てくる統計資料をまとめたり、各種情報を発信したりする業務を行うようになったんです。
それまでは、本やファックスといった形で回されていた情報を、イントラネットを構築してデータベース化しました。
当時は、エクセルで統計数値を整理した資料を作ったり、パソコンでプレゼン資料を作成したりするのも、まだできる人が少なかった時代なんですよ」

◾️2000年代初頭〜半ばの若手時代

20代半ばからは、本格的に商社マン人生に乗り出していきます。
90年代初頭にバブルが弾けた後は、一瞬で爆上がりして弾けたITバブルや就職氷河期、デフレスパイラルという長い不景気に足を踏み入れた当時。大手金融機関も倒産が続き、様々な企業が統廃合する時期でした。

黒崎「当時は、『商社、冬の時代』『商社不要論』が叫ばれていました。日商岩井も例外に漏れず、私は入社2年目に、三菱商事との鉄鋼部門の統合プロジェクトに関わることになりました。
新人社員という立場で、広報活動や外部コンサルティング会社との連携など、多岐にわたる業務に携わって実務を覚えていきました。対外的な発信から、両者社員の融合に関することまで多肢に渡るため、責任も重かったですし、まさに激務でしたね。
でも、いま思えば、この時期の経験が全て、現在の政治活動の力になっていると感じます。
そして、入社5年ほどして、私自身のスキルを培う最も大きな経験となった営業の仕事に就くことになりました」

サラリーマン時代。25歳の時、日商岩井お台場本社ビル(
当時)にて

大手商社の営業職といえば、大きなプロジェクトを推進したり、複数の企業と折衝してまとめたりする花形業務。
それまで行ってきた業務とは違った力量が試されるようになります。

「営業の現場で、もっとも試され、そして培われたのが『つなぐ力』でした。
どんな大きなプロジェクトでも、どんな巨大な建造物でも、それらはそれら自体で成り立っているわけではありません。
人と人とが繋がって初めて生み出されるものなんです。それを肌身で知ることとなりました」

しかし、多くの人が関わる分、責任も重大になります。

「私がいた現場で営業の責任が問われるのは、いかにきちんとエンドユーザーに素材を納品できるかということでした。
素材と一言でいっても10トン、20トンの量の鉄素材といったレベルです。足りなかったらちょっとどこかで借りてくれば済むというような話ではありません。
しかし、不測の事態というものは必ず起こるものです。
その不測の事態を見越して、いかにリスクヘッジができるかという事前の組み立てが大切になります。
そのために重要なのは、自分自身の力ではありません。在庫を保持している企業さん、原料を商品にする加工業者さん、流通を担う企業さん…そういったプロジェクトに関わる人たちとチームとして結束し、いかに連携が保たれているかが要になる。これを営業職について学びました」

「相手」を思いやることで生まれる「つなぐ力」


26歳の時。日商岩井お台場本社ビル(当時)にて。

◾️商社での業務は『お客様ファースト』がポリシー

つまり、企業と企業、人と人を「つなぐ力」が大切だということ。この「つなぐ力」を生み出し、支えるのは、どのような意識なのでしょうか。

「一言で言えば、自分自身よりも、相手を思いやるということです。今時の言葉でいえば、『お客様ファーストの姿勢』ですね。
商社の仕事というのは文字通り、商売の仕事です。つまりお客様あっての仕事ということです。
私は、何よりもお客様が何を求めているかを考え、お客様のニーズに応えるために全力を尽くすことを1番に掲げ、それを続けました。
例えば、相手の会社が売りたい商品を抱えていれば、本気でその商品を売ることを考えるといったことです。言葉にしてしまえばそれだけのことなのですが、実際にやろうと思うと大変です。
そして、『つなぐ力』は自分の所属する組織のことだけ、自分の立場だけを考えていては生まれません。相手の立場、相手の利益を考えることで生まれる力なのです」

このようにして作られた『つなぐ力』が、いまの黒崎にも役立っているということ。
その部分をもう少し掘り下げて聞いていきましょう。

◾️「互恵関係」で育まれる人間関係

「そうですね。『お客様ファースト』で繋がった関係は、お互いにギブアンドテイクがあり、相互がwinwinの関係になることをめざしていました。
このような関係を、『互恵関係』と呼んでいます。互恵とはお互いが便宜を図りあったりする言葉で、平たく言えば持ちつ持たれつといったことです。
これは、強く深い信頼関係があってこそ成り立つものだと思うんです。単に利用し合おうという関係では長続きしません」

とはいえ、『取引相手ファースト』の姿勢で業務を遂行していると、自分の組織が求めることとぶつかってしまうことも出てくるでしょう。

黒崎「はい。僕は正直、自分はサラリーマンとしては優等生ではなかったと思っています(笑)。もちろん会社への貢献はしていましたが、お客様ファーストでしたので。
より良い世の中にするために、誰に貢献するか、社会にどう貢献するか…突き詰めて考えていった結果、サラリーマンを辞めて政治の世界へと進む。そういう答えを出しました
でも、政治の世界に進んだことで、サラリーマン時代に育んだ人間関係や繋がりもより良く生かされているので、結果オーライだと感じています」

小学5年生の時に芽生えた「政治家になりたい」という夢が、「人や社会への貢献」という姿勢を育んだのだろうなと思わせるエピソードでしたね。

以上、ヒショっちが執筆しました!

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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