学校、国語、早送りと人々と

 稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(2022年・光文社新書)を読み終えて、じゃあ学校はどうだったのか、学校はどうなっていくのか、とか、そういうことをぼんやりと考えていました。

 前々回の記事で、「物語を味わうための体力を削られた若者世代」について考えました。早い段階から”何者か”になる圧力をかけられ、横並びであることを強いられる環境や共感しなくてはならないという周囲の空気に呑まれ、その結果、”コンテンツの消費者”となっていく若者たち。一つの作品に向き合い、じっくり味わうような”鑑賞”に費やす時間もお金も余裕もない、そういった人々の姿が見えてきたわけです。

 では、この話を学校教育と接続するとどうなるのでしょうか。まず避けて通れないのは国語科の授業、特に物語を扱う授業との関連です。
 物語の授業が国語の授業全体に占める割合は、ひとまず体感ではかなり減ってしまったのではないでしょうか。1年間で触れることになる物語の本数はいいところ4〜5本です。ただ、本数以上に「時数」が減っているなあと感じます。小学校5、6年生になるとそれはかなり顕著な傾向になります。高学年の物語教材は、読書嫌い、本嫌い、活字アレルギーの子にとってはかなりハードなラインナップになっています。せめて物語の大きな流れを十全に把握できる時間が確保されていればまだなんとかなるのかもしれませんが、そんな時間はありません。いいところ7、8回程度の授業で「自分はこの物語をじっくり味わったぞ。」という実感までもっていかねばなりません。このような授業の構想は、ちょっとどころかかなり骨の折れる話です。
 ただ(この話は前々回の記事でも触れた通りですし)、単純な時数の話で終わってしまうようなものではないのだろうなと思います。もっと大きな何かが横たわっていて、その何かが「映画を早送りで観る人たち」を世に増やしているのではないかと、そう思うわけです。

ファスト化する学校

 本書ではファスト映画の話題が出ていました。映画のあらすじを10分程度の動画で説明する、明確な著作権侵害、違法動画です。まあ、名作映画のために2時間費やすのはちょっと、でもとりあえず触れておきたい、という層にとっては便利なものなのですが、違法は違法ですね。
 ファストフード、ファストファッションといった言葉からもわかる通り、ファストには「手軽に、手っ取り早く」といった意味合いがあります。映画早送り視聴と学校教育の接続という無茶苦茶をやるために、学校のファスト化という仮説を打ち立てておこうと思います。もう全部無茶苦茶よ。マキマさんの中のチェンソーマンか。ただ、学校だけが単独でファスト化していくことはあり得ないだろうという立場ではあります。物事の全ては、社会の波は、基本的に連動しています。あくまで、社会全体がファスト化していく中で、学校はどのような動きをしているのか、という点で話していこうと思います。
 「学校の先生は忙しい。」と、とにかく言われまくりに言われまくっています。その忙しさの背景、原因、解決策などなど議論すべきことは(すべきなのか?)いろいろありますが、それはいったん傍に置いて、忙しさはファスト化に関係しているかどうかを考えていきます。考えたくない。
 そもそも学校教員なる仕事自体が、頭脳・肉体・感情からなる三種の労働がブレンドされた”混沌”です。そして、生徒指導に代表される感情労働の割合は年々高まっているのが実感です。これは、2021年度の病気(精神疾患)休職者数が過去最多(人数も割合も)を記録した現状からもなんとなく予想はつくでしょう。多くの先生が、体や脳みそが疲れる以前に精神がすり減っているのです。そんな中で、どうにかこうにか明日の授業を成り立たせ、明日の教室を守っているわけです。
 ここまでいくと、学校に”ファストの風”が入り込む余地は大いにあるように思えてきませんか。きませんかね。
 ”精神的な疲れ”は、頭脳も肉体も鈍らせます。私も「2時間経ったのに何も仕事が終わってない。」という状況に陥ったことがありますが、そういう中でもなんとか明日の授業を形にしなくてはなりません。限られた時間と精神力で手軽に手っ取り早く、授業が準備できないものか……。行き着く先はWeb検索です。インターネットブラウザを立ち上げて、「○年生 国語」とか「○年生 わり算の筆算」と検索するわけです。ありがたいことに、先行実践や指導案(授業のおおまかなプランや評価のための観点を記載したペーパー)はWebの海の至る所に落ちています。玉石混淆のそれらを拾って、明日の授業をつなぐのです。
 Web検索だけで授業づくりを済ませている、というのは非常に極端な例ですので、もう一つの例を。授業づくりを支えているもう一つのツールは、本です。教員ではない方は、書店に行っても教育書コーナーに足を運ぶことは少ないかと思いますので、イメージがつきにくいかもしれません。じゃあそこでたくさん売れているのはどんな本か、平積みされているのはどんな本か、と言いますと、「全単元板書シリーズ」と呼ばれる本です。例えばこういうのです。著名な実践家の先生たちが、出版社と打ち合わせを重ね、こんな授業プランどうですか、黒板はこういうふうに書いたらいいと思います、もちろん全ての学年、ほとんどの教科、4月から3月まで、全部入ってますから、と本の形で提案してくれているのです。きっと、このシリーズに助けられている先生は多いのだろうと思います。
 きっちりはっきりさせておきますと、私はWeb検索や本で授業づくりをすることは全く否定しません。むしろ自分だってそうです。これらの方法によって多少なりとも負担が軽減されるというのなら、積極的に活用していくのが自然でしょう。
 では、Web検索や本が登場する前の授業づくりはどうだったのかを一言で言いますと、文字通りのOJT(お前が自分でトレーニング)だったわけです。国語なり算数なり社会なりに一家言ある先輩教師に、いろいろ教わったり習ったりしたわけです。授業を見てもらって、ああでもないこうでもない、と言ってもらって、また授業して……その繰り返しです。あるいは自分で先輩教師の授業を見にいく。「なんでこんなにすごい授業ができるんだ。」と衝撃を受けて、自分との大きな差に打ちひしがれる。そういうことを繰り返しながら、自分の授業スタイルを作り上げていくわけです。
 そして、このような教師成長物語は過去のものになりつつあります。言ってしまえば”見て盗め”に近い、厳格な徒弟制度式トレーニングな訳ですから、時間がかかります。そのような修業に近い方式での人材育成をする時間や余裕は失われつつあるのです。
 社会全体がファスト化していく中で、学校もまたファスト化の波の中にあります。教育の仕事は、教育という営為は、ファスト化からは一段離れたところにあるのでは、ということを信じてきたのですが、どうもそういうわけにはいかないのかもしれません。

高尚なことなんて言えなくて

 「単元を貫く言語活動」(略して「タンツラ」)が隆盛したのが10年ほど前でしょうか。
 「タンツラ」は、物語を(物語に限らないのですが)読んでどんな資質・能力を身につけることができたのか、それに自覚的になるためには、文字通りひとまとまりの学習を一貫する、明確で具体的な活動が位置付けられる必要があるとするムーヴメントです。ものすごく乱暴に言い切ると、ある物語を読んでポップや感想文といった”何か形のある成果物”を作り上げたり、読んだことを用いてスピーチやディベートや討論会などの”具体的な活動”をしたりすること。成果物や活動の達成を学習のゴールとして設定し、そこに向かって物語を読んでいくこと。です。わあ乱暴。
 なんか、この書き方だとすごく破綻しているように思いますね。目的と手段がごちゃごちゃしてしまい、迷走(学校教育界では”這い回る”とか言います)しているようにも思えます。もちろん、それは「タンツラ」に誤解と失策が上塗りされた結果です。しかし、多くの教育現場でそのようになってしまったことは(賛否と議論の余地はありましょうが)事実なのです。私自身も誤解と失策の結果、授業を迷走させたことがあります。
 そういうわけで、この「タンツラ」辺りから、物語を読むためには何か明確な目的意識が要求されるという空気が漂い始めたように思います。物語を読む目的は、物語を読むこと以外にないのでは、とも思うのですが、どうやらそうではないのかもしれません。
 物語を読む際の明確な目的意識。それは「何か高尚な感想を抱き、それを述べること」へと収斂していったのではないでしょうか。
 物語を読んで感じた”何か”が、「タンツラ」によって可視化された、あるいは可視化”されなければならない”、となってしまった。そうなると「何かいいこと言わなきゃ。」「言わなきゃいけないけど、何も言えないや。」「こんなこと言ってしまっていいんだろうか。」……書いていてつらくなってきました……教室は、そういう心の声が渦巻く空間になってしまっていたのでしょうか。せっかくもつことができた感想を「多分これ、大した感想じゃないんだろうな。」と引っ込めてしまう。「こんな感想しかもてない自分って、ダメだなぁ。」と卑下してしまう。そんな事態を引き起こしてしまっていたのかもしれません。
 物語に触れることと、何か高尚な感想を述べることがセットになってしまっていたとしたら。他作品、他ジャンル、他文化から何かを引用して論ずることが大事なのだと、国語の授業を通して感じてしまっていたら。多くの人が”作品を鑑賞する”ことから降りて”コンテンツを消費する”船に乗り込み、映画を早送りしてしまってもそれは仕方のない流れのように思えます。だって、自分は本を出すようなプロの評論家や、インターネットで作品愛を熱く語る”オタク”のように、立派で素敵で高尚なことは言えないんだから……。

”何者かになろう”の圧

 大学が「人生の夏休み」と呼ばれなくなりました。出席が厳格化され、実家からの仕送りは減少し、奨学金制度の拡充もあまり進んでいません。日々の講義とゼミとバイトで自由に使える時間は目減りし、お金だって充分とは言えない。そんな状況にあるのが今の大学生なのです。研究機関でもある大学に対して、まるで「就職予備校」のような役割がもたされている昨今にあっては、本書にもあった、”「何者かになれ」という圧力”がどんどんと高まっているのだろうと思います。時間、お金、総じて余裕のない大学生に対して、です。問題は、その「何者かになれ」圧が異常な広がりをもっていることにあります。
 高校、中学での進路指導はまさしく「何者かになれ」という圧力です。もちろん、この圧力を圧力と感じずに自分の打ち立てた目標に向かって邁進する若人だってたくさんいることでしょう。それで圧力の存在が無になるわけではありませんが。
 では、そういった圧力とは一見無縁そうな小学校ではどうでしょうか。
 「キャリア・パスポート」というポートフォリオ作成の取り組みがあります。様式や記載内容は自治体や学校によってまちまちですが、すごくざっくり言うと、児童の目標、将来の夢、得意なことに始まり、自分がどんなことをがんばっていて、得意分野としていて、どんな能力が身に付いて、どんな資質が伸びて、といったことを記録し、蓄積していくものです。
 さて、一部教員界隈からは、登場当初から「キャリア・パスポート」(略してキャリパス)への拒否反応が観測されています。大体「また仕事が増える。」という内容なので、毎回おんなじ感じなんですけどもね。注視すべきは、この「キャリパス」が、児童に”自分は何者であるか”を証明させることを要求している点です。
 「君はどんな人間なんだい。」正直、私でも「ちょっと考えさせてね。」で逃げたくなるような質問です。それを、人生経験10年前後の子どもにもしているわけです。「キャリパス」という名前でオブラートに包まれてはいますが、そういうことなのです。そして「仕事が増える。」とブー垂れてた人たちは、「まあ仕事だしな。」で自分を納得させて、児童に”何者かの証明”をさせているわけです。
 何者かになる。この圧力は、思っている以上に遍在しているのです。
 何者かになる。じゃあ何になるの?
 幸か不幸か、現在は”なろうと思える存在が非常に多様化している”時代です。「何歳からでも新しいことにチャレンジしていいんだ。」という風潮も市民権を得て、プログラミング、アプリ開発や動画配信に取り組む高齢者も増えました。そういえば漫画『海が走るエンドロール』は、おばあちゃんが映画制作に挑戦するストーリーでしたね。
 情報の飽和によって「なりたい自分になろう。」というスローガンの訴求力は強烈なまでに高まりました。かつてYoutubeの広告には、有名配信者の写真とともに「好きなことで、生きていく」というキャッチコピーが載っていました。
 小学生の多くが「Youtuber(動画配信者)になりたい。」と思うのは「なんか手っ取り早くなれそうだから。」という動機が見え隠れしており、さらに言うと、それだけ彼ら彼女らが動画配信者という存在に多く触れているからなのだろうと思います。接触機会が多く、かつ刺激を与えてくれるものに対して抱く感情は、好意、憧れ、尊敬……概してポジティヴなものです。崇拝までいくとちょっとどうかなとなりますけども。
 何者かになりたい、という未成熟な欲望(しかも外圧によって発生した可能性が高い欲望、あるいは焦燥)に対して動画配信者は「じゃあ私たちみたいにならないか?」と言外に誘いかける。それに乗ったとして、動画配信に要求されるスキル、ノウハウ、経験やマインドセットは誰も用意してくれていません。彼らは見よう見まねでYoutuberなどインフルエンサーの真似事を始め、そして多くは、ほとんど何も得られないまま消えていきます。実際に動画配信を始めたならまだ良い方で、実際には玉石混淆の動画配信者たちを”見るだけ見て満足するか、仲間内で真似し合って終わる”という結果になってしまう方が多いのです。それは「コンテンツの消費」でしかありません。
 でも仕方がない。たとえそれが動画配信者の真似事であったとしても、彼ら彼女らの中には「何者かには近づいた。」という淡い実感が残るのですから。何者かになるんだ、と圧をかける大人たちが「いやそういうのじゃなくてさぁ。」と言ったとして、それは彼ら彼女らの耳に、心に、届くのでしょうか。


 前々回の記事は、「”国語力”議論の空疎」という題をつけました。ただ、ファスト化も、「高尚なことなんて言えないよぉ……。」の不安も、何者かになれという圧力も、もはや学校というシステムの中には収まりきらない話になってきています。「映画を早送りで見るなんてけしからん。学校は何してんだ。 #国語教育が悪い !」となっても、それはてんで的外れな話なんだと思います。学校関係者としての責任逃れをしたいのではありません。ありませんが、これからどうなっていくんだろうか、という漠然とした不安があります。
 この国の、この学校で、私や私たちができることが何かあるのでしょうか。多分、まだあるのでしょう。