5分、嗚呼5分

 本当に授業時間が5分短縮されたら、授業の実際がどうなるのかということなんですが、多分そんなに変わらないし、ギャイギャイ騒ぐのはもっと別の観点からであるべきだと思います。それこそ、「学校裁量」の部分についての提案がどんどんなされるといいなと思います。
 部活動について一家言ある感じの皆様方におかれましては(オブラート)、きっとこの方針が検討されていることに対して「文科省の無能!」(本当に無能かどうかは措くとして)と元気に怪気炎をあげておられるのかなと思います。私の観測範囲にいないので憶測ですが。

 40分、ないし45分に短縮された授業時間の中で何をすべきか、もっと言うと“何をしないべきか”については思考と試行を要するだろうなと現時点では考えています。
 ただ、こんな隕石衝突並みの衝撃に遭遇するたびに、私の教育観はもっともっと根っこの方向へと回帰しようとするので、最終的には毎回同じことを主張しそうです。そして、“力量のある先生”は「まあ今までもやってきたことだから。」と難なく対応してしまうのだろうな、そんな予感もあります。

 たかが5分、されど5分。失われた300秒をどのように回復するかを考えます(授業が定刻に始められない事故が時折発生してしまうことはこの際考えないものとする)。
 考えられるのが「教師が喋る時間を極力減らす」ということです。裏を返すと「これまでの教師(の多く)は、喋りすぎていた」のです。そしてこの“喋りすぎる”要因は、実は教師側にしか存在しないと考えています。

 要するに不安なのです。
 自分の指示が児童生徒に伝わったかが。
 自分の発問で本当に求める方向に授業が転がるのかが。
 もう少し突っ込んでいくと、これは自分の立てた授業の構想や計画に対する不安でもあります。
 そりゃあもちろん、全く話を聞かないとか、特定の要因で指示等を聞き漏らしてしまう児童生徒がいることはいるわけですから、そこには配慮するとしても、基本的に教師の話が長くなる原因は教師にあります。
 大勢の前で話す、しかも聴衆の大半は自分の話をうんうんと聞き、指示した通りに動く。これだと支配欲が過剰に刺激され、無自覚のうちに「もっと話したいなあ。」となってしまう。児童生徒が自分の話を聞いてくれるのは、教師と児童生徒の関係だからであって、決して自分の話が魅力的だからではないということに自覚的にならないと、「教師喋りすぎ問題」は解決されないだろうな、という悲しい諦念があります。

 実は、児童生徒は思っている以上に教師の話を聞いてくれていますし、自分の頭で話を理解し、解釈し、結果を出力しようとしてくれています。それは入学したての小学1年生でも、です。
 しかし、こちらが話せば話すほど、喋れば喋るほど、理解は薄くなり、解釈はこんがらがり、出力された結果は教師をがっかりさせてしまいます。何をがっかりしとんじゃ、教師のせいじゃろが。と思いますが。

 「もし授業時間が20分しかなかったらどうする。」
 「教師が言葉を発する時間を5分以内に収めてみよう。」
 若い先生たちに提案したことのある内容です。授業づくりの際に、思考実験的にやってみてはどうかと提案したことなのですが、もうこういう極端な方向に振っていくことも考えた方がいいのかもしれませんね。
 近い将来に訪れるかもしれない授業構想、授業計画の地殻変動について、そんなことを考えています。