“自走と伴走”の覚書

 研修会(24.1.22)で、どのようなことを考えたかの覚書です。

 かいつまんで、ざっくり大まかに述べるのであれば、学習において児童生徒は自走できるように、教師は伴走者としての立ち位置を意識することになります。
 学校教育周りの潮流はもうほぼこの類型の話で固まり始めていると言っていいかも知れません。自走する子ども、伴走する教師。

 ただこの“自走と伴走”については、これまでも自分なりに(おぼろげに、ではありますが)ずっと考えてきたことではあるので、学校教育業界でお馴染みの「今までやってきたことに(それらしい)名前をつけて、改めて整理して示した」というものを脱してはいない印象です。きっと、このようなことを基底とした話が、これからもずっと繰り返されていくのではないだろうか、という予感があります。“振り子の振り戻し”ですらない、表書きを書き換えたに過ぎないあれやこれや。“不易と流行”という言葉も、学校教育業界では好まれて使われているのですが、一見すると対極な“不易”も“流行”も、きっと同根のものであるのだろうなと思います。

 では改めて、“自走と伴走”について自分なりに考えていくことにします。
 そもそもこの話でよくよく注意しなくてはならないのが、「なんか耳障りのいい言葉である」という点です。私なんかは、どうにも観念的でふわっとしていて分かった気になれる言葉に触れると、本当に“分かった気に”なってしまうので危険なんです。”自走”も“伴走”も、実際には何も言っていないに等しい言葉で、当事者の具体的な姿をきちんと想定する必要があります。

 “自走”。多分、これがもう結構支配的な観念になってくるのかなという予感があります。自走する子ども、学習場面を自走する、そういう素敵な姿を私たちは思い浮かべる。思い浮かべてしまう。ただ、この“自走”を支える要素にはどんなものがあるのかを丁寧に理解していく必要はあろうなと思います。内燃機関を備えた自動車を想定し、燃料や車輪は、車軸は、歯車は何か。操舵は何で行うのか……。
 正直、例え話をする目的は例え話をすることなので、こうやって自走という文字づらから自動車を想起して何かを話すこと自体が無意味で空疎な気がします。何か別のものを想定するのは、自分の思考を下支えできるので助けにはなるのですが、結局これも“分かった気になる”危険性から逃れられないのです。

 “伴走”については、“支援”といった言葉で置き換えて使っていく方が具体的な様子を喚起できるでしょう(と言ってもその具体性の水準にも限界はありますが)。ブラインドマラソンにおける伴走者は「ランナーの前に出ない」などの細かな規定があり、これを知ることで“学習場面における伴走の様子”を想起/想定することができるのですが、それもまたちょっと危険かなと思います。
 学習場面でのつまずきの想定と、そこでとりうる最善の方策について事前に用意しておくなど、やりようはいろいろとありますし、何より学校教育における“支援”という言葉の浸透具合、汎用性を踏まえると、“伴走”という言葉の様相に引っ張られ過ぎないように留意しておく必要があるかなと思います。

 ということで、やはり授業や指導や支援といった具体的な場面の想定をしなくてはならない、という月並みな結論に落ち着いていきます。そういった日常的な実践の中で、“自走”や“伴走”の言葉を地に立たせていくことをしなくてはなりません。言葉を実感として成立させる、そういう仕事なのだろうとぼんやり思います。