生き苦しき生の肯定 『正欲』

 朝井リョウ『正欲』(新潮社・2021年)
 映画化も発表されてしばらく経ったタイミングで、前々から読もうと思っていた作品をようやく読み終えられました。作者紹介で「お腹が弱い」とはもう書かれなくなっていたのを発見しました。強くなったのでしょうか。

 作品全編を通して貫かれたテーマは今流行りの”多様性”です。学校に行かないことを選んだ少年とその両親。水そのものに性的興奮を感じる男女。異性からの視線を嫌悪する大学生の男女。さまざまな”息苦しさ=生き苦しさ”を抱える登場人物たちを、”多数派”や”真っ当な人々”の存在が浮き彫りにしていきます。しかしその”まともさ”というのも、「自分達はまともである」という、どこか虚しさ漂う確認作業の末に成り立っている脆弱なものであり、それはどこか滑稽な様相を呈すのです。まともであることを確認し、喧伝することの胡散臭さ、必死さ。「学校に行くことが正しいのだ」「異性の体に欲情することはまともな証拠だ」「異性との交際、結婚、そして子育て、それが正しい人生だ」しかし、それらの涙ぐましい”確認作業”から一定の距離をとって生きたり、あるいは冷笑したりすることもまた、同種の虚しさを抱えているのだろうな、と感じます。厳密には、本作の登場人物たちは一定の距離をとっていたわけでも冷笑していたわけでもないのですが。

 「自分は一体どちら側なのか」という確認作業が生み出す虚しさこそが、”生き苦しさ”の根底にあるのではないか、そういうふうに思います。向こう岸に誰が居ようと、こちらの岸に誰と居ようと、それ自体に大した意味はないし、第一この”岸”という例えもなんだかいまいちです。
 この世界のどこにもいない、たった一人の”わたし”という存在そのものに誇りや自尊感情や自信をもって生きていくことができれば、そもそも”多様性”という言葉さえも不要なのでしょうが、どうしても私たちは多様性を尊重しようね、と言ってしまうのです。この作品を”多様性”という言葉の中に押し込めようとしてしまうのです。
 私たちはまだ、そういう水準あたりで捉えた”多様性”の周りをうろうろと彷徨っているのかなあと思います。