返還される未来 『すずめの戸締まり』

 3.11震災と日本神話的要素を中核にして、一人の少女の変容を描く。それが今回の新海誠作品でした。宗教的な意味での「後戸」と、セキュリティホールとしての「バックドア」とかなんか関係あんのかなとか考えましたが、それはいいや。

 大きな感想としては主人公・岩戸鈴芽の「奪う者から返す者」への変化・変容が中心です。
 震災で母を亡くし、叔母・環に引き取られて九州に引っ越した鈴芽は、結果的に環個人の時間や可能性を奪うことになってしまいます。この事実は鈴芽の中でずっと小さく引っかかっているわけですが、それを見て見ぬ振りし、気にかけているそぶりは見せつつも、自身の生活というレイヤーがそれに覆いかぶさり、上書きしていきます。
 「閉じ師」の草太に興味をもってついて行った結果、後戸は開くわ要石は抜けるわの大騒動を引き起こし、間接的に彼の人間としての体と教員採用試験の受検機会を奪ってしまいます。
 側から見ればそれらは「成り行きで仕方なく」で片付いてしまう事柄ではあるのですが、構造的には気ままに現れて地震を引き起こし、日常生活を奪う「みみず」とあまり変わらないのではないかという所感をもちました。
 主人公・鈴芽は高校生ですが「意識せず、意図せず他者から奪う」という未成熟な部分をもったまま旅に出ます。旅先での出会いの多くは、鈴芽に「与えること」と「奪われること」を経験させます。母の形見である椅子と草太を同時に失う、奪われることさえも。

 わずかな希望を抱きながら故郷・東北に向かう道中で、自分が「奪う側」であったことを決定的に思い知らされますが、その事件を起点として鈴芽の成長、変容は加速していきます。
 収奪者から返還者へ。扉を閉じることで、見知らぬ誰かの何かが奪われる機会を未然に防ぎ、「未来を返す」。ただ一箇所だけ、常世に立ち入ることのできる故郷の扉の中で、草太の生を返し、幼い自分に椅子と未来を返し、現世に帰ってきます。これは「一生大切にする」が成就した瞬間でもあるなと感じます。

 「未来を返す」という概念。何かニーチェ的なものを感じなくもないのですが、それはそれとして。
 3.11震災を中核に据えた物語である以上は、犠牲となった人たちの「奪われた未来」というのは、避けがたいテーマになってしまいます。しかし、未来が奪われてしまったのなら、それを取り返したり、あるいは誰かに返してもらったり、そういう時空を超えたやり取りへと書き換えていくことも可能なのではないでしょうか。無意識的、無意図的に誰かから奪ってきた鈴芽の成長、あるいは変容によって、物語において未来は「返されるもの」になった。それは、今この時を生きていくことの希望になりえるのではないでしょうか。

 「行ってきます」と「おかえり」がワンセットとなって、物語全体を包む構造になっているなと感じました。それはまた、鈴芽自身が「返還者」になったことによって可能になったことでもあるのでしょう。「行ってきます」は「おかえり」と言われる未来を信じることによって生きた言葉になる。希望ある未来を返すための、「行ってきます」なのだろうと思います。