あの日も多分、疲れていた

 抑うつに至る道。日々のいろいろなものが積もり積もっていった結果なのだと考えている。アレが終わっていない、コレが進んでいない、ソレがどうなっているのかわからない。箒で掃いて思考の外に追い出せるほど軽いもの、だったのかもしれない。しかし、年月が経てばそれはホイールローダーでももってこいと言わんばかりの山と化しており、個人の力でどうこうできる代物ではなくなっていた。いつ私の心の中でスパークが起きてもおかしくない状態だったのだろうなと思い返す。

 私の場合は、土日が生命線だったのだろうなと振り返ることができる。この仕事にあって、丸一日それなりに自由気ままな生活を送れる日が週に2回は必ずある、というのは大きな意味があった。カレンダー通りに休日がくることのありがたさは、そのまま私に反転して襲いかかってくるのだけど。

 少なくとも10数年前の私は、休日の研修会や学習会に自発的に参加していたし、自主的に企画したこともあるし、主体的に関わろうとしていた。文書や指導案を作り、自分よりもさらに若い先生と一緒になって授業についてや学級経営についてを話し合った。それら全てを、私の意志で選び取っていた。少なくともある時期までは。
 つまり、「休日に研修会や学習会に参加する、書き物を書く、授業を考え、語り合う。素晴らしいことじゃないか。」という周囲からの言葉に込められた無意識下の暴力性にうっすら気づき始めた。「私の時間」を「公の時間」と混ぜ合わせて過ごすことがもたらす水面下での心の摩耗を意識し始めた。
 そりゃあ、休日に何かしらの活動に勤しむことは大変に素晴らしいことであって、否定的に捉えることはない。しかしながらちょっとしたボタンのかけ違いがどこかで発生したのだろう、「なんか変だ。これだけやっているのに私は何も得られていない。何者にもなっていない。」という意識が背中を這い上り始め、焦燥感が募っていく。金銭的な見返りは最初から求めていない。しかし、金銭には代えられない、もっと素晴らしい何かを得た、という実感が何もない。いや見返りを求める心性自体が間違っているのではないか。でも自分は「何か」「何者か」になれていない。胸を張って「私はこういう者です。」と言える状態になっていない。人とのつながりは確かにできた。できたが、相手方がその関係を維持し続けてくれるか、維持する労力を払うに値する人間として私を見てくれているのかはずっと不安だ。
 もう何もかもが分からなくなっていた。多分それが2020年1月ごろ。新型コロナ感染症が日本国内で猛威を奮い始める直前である。

 心はほんの些細なきっかけで決壊してしまう。かけ違ったボタンをとめ直すことがないまま、私は休養に突入した。あの日の私は、やっぱり疲れていたんだな。疲れの大元をちょっと紐解けただけでも、よかったことにしておこうと思う。