「思い出業務」という名の呪い

 「思い出業務」ですって。あのね,その一部は「特別活動」の中の「行事」というカテゴリに属するものでして,などという理屈を捏ねてもどうしようもないくらいにこの声が届かなくなっているのが「働き方改革を標榜する過激派教員クラスタ」(今勝手に命名した)なんでしょうなあ。そういう虚無感にも似た「これってどうもならんのじゃね?」というのに触れることが本当に多くなった。キツいね。

 入学式に始まり,卒業式に終わる。修了式で次の学年に繋ぐ。運動会で学級の雰囲気を高め,学芸会で学年の空気を盛り上げる。修学旅行と宿泊体験学習は,毎年「思い出深い学校行事」という児童対象アンケートで必ず上位に入ってくる。いや分かってますよ。そういう行事に積極的に参加できない,参加したくても心のレベル,魂のレベルで拒絶してしまう児童生徒がいることは。ただ「思い出業務」という言葉が含む,一部の行事とそれに付随するあれこれ全てに対してNOを突きつける過激さ。それを持てるほど,私の神経は図太くはない,ということが分かった。なんでかねえ。

 結局,物語を見ている。これって公務員としてマジでどうかと思うことだけどねえ。
 学校という,学級という閉じられた時空間の中で,現在進行形で物語が綴られている。綴られていると錯覚している。その物語の中に自分がいる。いると錯覚している。あるいは物語の外にいるという,神様みたいな超越的な視点を手に入れたと錯覚している。

 学校の先生というのはやっぱり残酷な権力機構であり,暴力性を保持している。閉鎖された時空間内(という限られた範囲)で全権を持っている。その全権の行使について……。怖いなあと思う。
 結局は「強固な絆をもつ学級を作る」とか「学力爆上げ」とか,あるいは「学級が崩壊してしまいました」とか,全部一緒のベクトルでしかない(いかん落ち込んできた)。だから,思い出業務の全カット,というのだって同じベクトルなんだ。
 僕たちは物語を綴ろうとしている。その物語は届くのだろうか。何に。誰に。