「予算獲得」の側面から見た公立学校の公開研究会

何はなくとも、カネ

『映像研には手を出すな!』
 大童澄瞳による漫画を原作とする、2020年のアニメーション作品。奇妙な利害の一致をみた浅草みどり、金森さやか、水崎ツバメの高校生3人によるアニメ制作を描く。3人は校内での部活動重複を避け、水崎両親の意向を踏まえつつ、「映像研究同好会」を立ち上げる。

映像研の3人に与えられた部室は、天井も壁も穴だらけの古い倉庫。まずは修理が必要である。(中略)そして3人は、「予算審議委員会」でアニメを発表し、活動をアピールすることを決める。浅草のスケッチから舞台設定を選んで構想を練る3人。浅草は戦車を発案。水崎は作画の“演技”にこだわる。そして、プロデューサー的視点を持つ金森は、浅草と水崎の創作へのエネルギーを焚きつける。

TVアニメ「映像研には手を出すな!」公式サイト 第3話あらすじより
http://eizouken-anime.com/story/?id=3

 予算。何はなくとも予算。カネだ。
 映像研は、制作したアニメーションの完成度を認められ満額の部費を獲得します。「予算なくてもやるタイプだが、部費を渡したらどうなるんだろうな」という評価を残して。
 学園もの、特に部活動を主題におくフィクションで部費の問題が発生することは時折見られますし、現実でも、甲子園出場を決めた野球部は卒業生やOB、地域の寄付によって聖地までバスを走らせます。
 部活動にはカネがいるのです。そしてそれは思っている以上にシビアな表情をしています。カネの匂いに敏感なプロデューサー役・金森氏の立ち回りはそれに拍車をかけています。
 カネがなけりゃ彼女たちは部室の修繕さえも叶わなかったわけですが、スタートライン以前からカネが絡まなければならない事態は現実に大きく横たわっており、それは「モラトリアムに守られた」者たち=映像研の3人も同様なわけです。

学校における予算、カネ

 このカネ、要は予算の話を無理くり私の仕事に接続していく試みです。
 学校の予算、となると、それは当然ですが自治体からやってくるわけです。授業や各種教育的活動に使用する備品、機材、消耗品。子どもたちに課すプリント課題や日々のお便りにかかる紙代にインク代。学校現場では依然として紙とインクがパワーをもっており、学級担任や事務職員が年間で印刷機やプリンタに突っ込むコピー用紙の枚数とインク、トナーの総量は計り知れません。実際には計ってますけども。

 学校に投入されているカネ、となるともう一つ。それは他ならぬ「先生」すなわち人員の話です。
 大卒・免許持ち・公務員、ということで、私たち「先生」には決して安くないカネが支払われており、学校ひとつ年間で見れば結構びっくりする額が動いていることになります。まあ、母数が大きけりゃそうだろうなというのはさておいて。
 教員のブラック労働が問題視されているようないないような昨今の風潮なのですが、頭脳・肉体・精神という3種の労働がゴチャゴチャとブレンドされたような労働環境であるのはおそらく間違いなく、そんな環境にあっては「ここでもう一人いてくれたら……!」と思うことは正直何度かあるわけです。単純に仕事を丸投げできて助かる、という場合。得意分野を基準に分担していこうね、という場合。緊急時にすぐさま動いてくれて助かる、という場合。状況はいろいろですが、共通しているのはそんなに都合よく人員は増えない、ということ。そして、「そんな人員がいれば、もっと授業と学級経営に余裕が出るのでは」という思いが脳裏をよぎることです。
 備品の新旧や消耗品の多寡ではなく、人員がどれだけいるのか。結局のところ学校における予算獲得とは、人員獲得なのです。少子化の進むこの時代にあって、それでも「スタッフをより多く投入した方が教育的効果を上げられる。いや、教育的効果は潤沢なスタッフの上に成り立つ。」くらいまで言い切ってしまって良いかもしれません。
 型落ち最安PCを貸与された今の状況ではワープロソフトを立ち上げるのにさえその遅さに苛立つ始末なので、このポンコツをさっさと更新してくれとも思うのですが……。

”学校として”呼び込む、カネ

 予算すなわち人員を獲得するためには、浅草氏たちがやったような成果の、実績の発表が必須になります。それが何にあたるかと言えば定時退勤クラスタが目の敵にしている(偏見)「公開研究会」とか「特設授業」とか「研究授業」とかなのです。特に「公開研究会」となると、近隣の小中学校だけでなく、自治体の教育委員会など行政側からもスタッフが送り込まれるわけで、もうそれは自分達の成果を、実績を存分にアピールできる機会なのです。もちろんそこは、「あくまで授業は子どもたちのためのものである」という理念を厳に保持しながら授業を外部に開くことになります。

 ここ最近の実感として、いわゆる「カリスマ教師」と呼ばれたような存在のもつ威光や権威は徐々に薄くなってきており、それに立ち代わって現れてきたのが「協働体としての学校」という概念です。つまり、たった一人で数十人〜百人規模の参観者を集めることができる先生の存在よりも、”学校として”たくさん人が呼べるようになっていく体制づくりや学校経営が求められているわけです。要するに”投資する(=人員を投入する)に値する学校であるかどうか”をアピールしていく必要があるということです。
 教委など行政の側から個人に対して投資することはできない、というより非常に難しいものです。しかも、学校の先生というのは数年で別の自治体に異動する確率が極めて高いですから、最初期は良くても、数年後にはいなくなってしまう個人に積極的に投資することは、そのハードルが異様に高くしてしまいます。ならその個人をずっとその地域に留め置けばいいじゃないか、というのもそう簡単に言える話ではないのです。人事異動には明文化された規則・要領がありますし、何かにつけて説明の必要がついて回ります。そうなると、学校という「団体に対して」投資する方が確実だし、対外的な説明は何倍も楽です。そういう「学校としての予算獲得」に向けた動きとして、「授業を外部に開く」というのは思っている以上に大きな意味があるわけです。
 何よりも「じゃあ代表者として〇〇先生、一本授業頼むよ。」ではなく、全員でやることが必要です。「我々は『協働体としての学校』であり、『投資する(=人員を投入する)に値する学校』だ。」と示すために。