「継承」の先の物語 『シン・仮面ライダー』

 伝統的な特撮にたくさん触れてきたような顔をしてWebの海を漂っていますが、私の特撮遍歴というのはまあ薄っぺらなので、『シン・仮面ライダー』を鑑賞して何を言えるかについては少々自信がありません。ちゃんと(ってなんだ)オリジナルを含めた歴代の仮面ライダーを通過してきた人たちにとってはよく見えてよく分かることも、私の目には見えてなかったり分からなかったりするのだろうなと思いますが、やはり何がしかを書き残しておこうと思います。言い訳がましい書き出しですが、そういうことです。

 「庵野監督がやりたいことをやりまくった映画」という評価も頷けるのですが、ただ、私が観たいのはそういう映画だったりするので、これを「評価」と呼ぶかどうかは少し難しいところです。
 巨大ロボが巨大kaijuをぶん殴る『パシフィック・リム』も、ミニチュア撮影の妙味を生かした『シン・ゴジラ』も、ド派手アクションで息も吐かせぬ展開を見せた『シン・ウルトラマン』も、それらは特撮のもつ魅力の一側面でしかないのでしょう。そのうちの一つが大幅に強調された作品になっているのは、そりゃあそうだろうね、という意味で。やりたいことをやりまくるにはそれ相応の愛が要求されますから、そういう点で考えれば、非常に安心できる作品だなとも思います。

 『シン・仮面ライダー』の土台を貫くテーマがなんだったのかを考えると、それは「継承」だったのかなと感じています。そしてこれは「仮面ライダーシリーズにおける『継承』は、普遍的というか当然というか、必修科目のような概念」という予感もしています。『仮面ライダーBLACK SUN』もそんな感じだったので。
 本作では、物語のキーとなるエネルギー概念の”プラーナ”が、この「継承」の物語を推進していきます。形のないものの「継承」には、どうしても魂とか意(遺)志とかが要求されます。その魂とか意(遺)志の役割を”プラーナ”というエネルギー概念に担わせることで、この作品が「『継承』の物語」になっていったのかなと感じています。

 継承と存続の狭間で揺れる登場人物たち。
 主人公・本郷猛は、死を予感してもなお、家族の今後よりも人質と通り魔の安否を気遣う父を見て、優しさと力の行使の狭間で揺れ動きます。終盤、緑川ルリ子の遺志と信頼を受け継ぎ、改めてSHOCKERと戦い続ける決意を固めるシーンの穏やかな空気感は、血みどろのアクションシーンに始まった本作において特に熱のこもった場面だったと感じます。
 「継承」の大きなうねりの中に身を投じるか否か、そういった葛藤が一文字隼人の中にはあったのかもしれません。アウトサイダー的な立ち位置から事態を眺めていた彼が緑川ルリ子によって魂を解放され、最終的には全てを受け入れて、風を切って走るラストシーン。その爽やかさ。仮面に宿った本郷との対話の温かさ。本作の描いた「継承」がこの先の未来を明るく照らす象徴のように思えました。

 生物が自然淘汰と進化によって、生存により有利な形質を継承していくこと、人間がそこに形のない魂や意志を乗せて継承していくこと。キャッチコピーの「変わるモノ。変わらないモノ。そして、変えたくないモノ。」が意味することは、私たちに進化と継承、その先の命の在り方を問いかけているのだろうなと思います。