「今、ここ」に対置するもの

 こんなことにいちいち突っ込んでおかないといけないのか、という気持ちになるのだけど、突っ込んでおいた方が私はスッキリするので突っ込んでおくことにする。

 「元教師」を名乗る男がTikTokに上げていた「学校で教える必要性が低い教科ランキング」の動画がカテイカーのごく一部でちょっと話題になっていた(もうそれはなってないのと同じじゃん)。中高生も多く見ているTikTokに上げるあたりに狙いが見え透いているのだが、内容はもうてんで話にならないので呆れ返るしかない。お前ホンマに元教師やったんか。「元」は自分の前職を悪し様にネタとして消費する免罪符ちゃうぞ。コメント欄に関してはまあ、そういうのを通過しなきゃいけない時期ってあるよね、って感じで生ぬるく見ております。ただ、この記事を書き始めた時点で1.7万超の「いいね」がついているので、まあその、はい。

 主張の要点は、結局のところ「学校外で学ぶ機会がある」「ネット検索で事足りる」なので、薄っぺらもいいところである。
 学校外であれが学べる、これが学べる、という情報が必要なのである。
 ネットで検索するための知識が必要なのである。
 それらを手に入れるための機会は誰が保障するのか。
 学びたい、分かりたい、知っておかなくてはならない、という意欲や関心や必要性はどこから湧いてくるのか。
 私たち「教師」あるいは「元教師」は、そのことを理解しているのだろうか。私たちは「日本国民の上位何%には入っている立場だ」という理解が薄いのではないか。大学を出て、公務員として働いている。とりあえずは食うに困っていない。だから「学校外でも学ぶ機会があるし、いざとなればネットで検索すればいい」となる。そもそもそういう発想がない層を想定できていない。だから、いとも簡単に「家庭科って教える必要なくない?」と言えてしまう。

 とりあえずの非難はここまでにしておいて、学校教育の教科を必要/不要で分けてしまうその心性を考えている。
 「この人たちには『もしかしたら後で使うかもしれないものを入れておく箱』がないのだろうな」と思う。断捨離ブームにミニマリストへの無条件の憧れ、コスパやタイパ重視に倍速視聴。その辺りの言葉が頭をぐるぐるしているが、多分あまり関係ないかもしれない。
 学校で学ぶことの、特に「知識及び技能」の多くは「もしかしたら後で使うかもしれないものを入れておく箱」に入る。並縫いするときの針の動き、フォルテシモの意味、なぜ木工接着剤では樹脂は接着できないのか、有名な印象派の絵の作者とその題名、前回り受身に袈裟固め。
 「もしかしたら後で使うかもしれないものを入れておく箱」は、たくさんあった方がいい。それが何の役に立つのかと言われて、「別に役に立たなくたっていいじゃないの。」と言い切ればいい。あるいは「僕の人生のどこかで役に立つ日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。」と言えればいい。役に立つとか立たないとか、そういう次元の話からはさっさと抜け出したい。ひどく単純化された二項対立から脱却していく推進力を、子どもたちに授けることができたらな、と思いながら授業を考えている。
 結局、元教師を名乗る彼の言っている「必要な時に検索すれば良い」は、「今、ここに必要ない、役に立たない知識や技能はいらない」ということであり、「役に立つ/立たない」の二項対立をあっさりと、そして強固に打ち立ててしまっている。
 「今、ここ」という観念。それはなんだかいいことのように聞こえてくる。今の自分の状態に集中することの良さというのはある。しかし、「今、ここ」への強固な執着が未来への扉を閉ざすことになるとしたら。未来を語れなくなった時に教育は死ぬのではないだろうか、といつも思う。