公開研究会の意義を探って

 北海道,ことオホーツク(ロシアじゃない方)のコロナ感染状況は非常に落ち着き始めており,1ヶ月以上にわたって新規感染者が出ていない状況になっている。終息に向けて確実に状況は動いている。リコーダーや鍵盤ハーモニカや調理実習が解禁されて,学校もまた少しずつ「あの頃」を取り戻し始めている。
 そういうわけで,近隣町の学校の公開研究会に参加したのである。ありがたいことである。実地で授業を見られる,児童の反応を直接見られる,ということがいかに尊くありがたいことだったかを思い出した。

 公開研究会を行う意義,研究授業を行う意義,みたいなのはいろいろ話されているのだけど,じゃあ「それらに参加する・参観する意義」ってどこにあるんだろうか,みたいなことはあまり聞かない気がする。Twitter上とかで。これはまあ,どうやっても「参加するこちら側の心持ち次第でどうとでもなる」というアレで,できる限り前向きな感じで参加して,前向きなサムシングを持ち帰りたいな,と思っている。なので,今回参加するにあたって,初任の先生と一緒に行けたことは非常に幸運だったな,と思っている。

 行きの車中では「いかにして授業を見るか」「授業のどこを見るか」とか,そういう話をしたと思う。ここで「若い頃は資料も入れて10ページ超えるような指導案を書いてどうのこうの」という話を入れてしまったことを大いに反省しなくてはならない。我々30代男性は,猛省しなくてはならない。総括せよ。

 で,帰りの車中。そこで聞くべきはもう「授業を見て,どう思った?」しかないのである。
「う〜ん。難しいんじゃないかなって思いました。」
「うん。じゃあなんで難しかったんだろうね。」
「子どもたちの理解が充分じゃなかったのかもしれないです。」
「ということは,本時に至るまでの数時間が,って感じだね。算数だと特にそれが大きい意味を持つからね〜。」

 授業を見ての率直な感想,その感想の出発点,震源地。それを炙り出して自覚させたかった。授業を見て,そこから建設的な意見を生み出すには「率直な感想とその根源」を探る必要があるから。そうやって授業を見ることが,見た授業を思い返すことが,自分の授業にもつながっていくだろうから。

 初任層の先生に,自分が持っていること,経験したことをどこまで伝えるかは常に悩む。お節介にならないか,押し付けがましくならないか,先輩風が暴風となって牙を剥かないか。考えなくてはならない。
 日々積み重なっていく授業。その間に,何か歪なものを挟んでしまえば,高い塔にするのが難しくなってしまうから。かといって何を挟めばいいのか。まあ,何かを与えてそれを挟んでくれるかどうかは,その人次第なのだけど。