書けよ、学級通信を

 働き方改革の皮を被った何ものかによると(どんな言い草だ)、学級通信の執筆・発行はカットして良い業務のひとつであるという。今更その是非をどうこうという話ではなく、やはりここは半径50cmくらいの話をしておこうと思う。私にとっての学級通信とは何か。学級通信を書くとは、学級通信を発行し、読んでもらうとは。

 正直な話をすると、私が小学生だった頃に担任の先生が発行していたお便りというのは全く記憶にない。その反動もあるのだろうか。できる限り、子どもや保護者の記憶に残る学級通信を書いてみたい、発行してみたい、という、エゴの塊を直接ぶつけるような行為を10年以上にわたって続けることになる。ほとんど呪いである。

 もちろん保護者から好意的な反応をもらったり、子どもから「今週の通信はまだ?」と聞かれたり、そういう幾つかの経験が、通信を書くための燃料になっていることもある。自分の書いた文章が、少なくとも今の時点で誰かには届いているのだ、という微かな実感。でも、それがなかったとしても、おそらく私は学級通信を週に1回は書いただろう。そしてそれは、多分、義務感から発せられた行為ではないのだろうと思う。「書きたいな」から始まる学級通信だったのだろう。

 学級通信は時折、子どもたちに読み聞かせることがある。君たちのがんばり、君たちの素敵なところ、君たちにもっとがんばってほしいこと……。いろいろだ。通信を学級経営の重要なポジションに位置付けている先生だっているくらいだから、はっきりとしたエビデンスがなくたってそこには何かしらの効果が見出されるんだろう。私だって何かしらの効果を期待して読み聞かせている。叶うことなら、この声が君たちの心に届いてほしい、と祈りながら。

 なんだか、手慰みみたいな話である。「祈り」と言ってしまっている時点で、手慰みとどっこいみたいなところはあるのだけどね。
 私にとっての書く行為は、「働き方改革」あるいは「その皮を被った何ものか」の埒外にあるのだ、ということだけがはっきりしている。それをはっきりさせるためだけの約800文字である。