学芸会の残照

 勤務校で学芸会を行いまして、「行事ものへの認識って定時退勤至上主義者はどうなんだろうな。」ということを考えている。嘘。本当は翌日の振替休業で何しようかしか考えてない。

 今年度から「学芸会」と「学習発表会」の中間くらいの色にして、名称は学芸会として取り組んだのだけど、実際に勤務時間に占めるウェイトは大きく変わっていないのだろうなというのが実感である。演目をどうするか。教科との兼ね合い。諸々の打ち合わせとすり合わせと、ご時世的にコロナ対策・対応もおまけでついてくる。時間外勤務削減については目立った成果があったとは言い難く、これまでの資源をいかに有効活用していくか、という方向性で乗り切った感がある。要するに「大掛かりな何かを新しく作るよりも、数年前に使ったあれを引っ張り出してくる」とか、「どうも隣の学校に立派なセットがあるらしいからそれを拝借・流用しようか」とかである。それでなんとかなるんだったら、やっぱりそうするよ。時間は平等で、そして限られているというのなら。

 勤務時間を圧迫することは確かなのだが、それ以上のリターンを我々は見出しがちなのである。だってその方が楽しいから。
 普段、前に出ることの少ないあの子。そういえば意識しないとどんな声をしているのか忘れてしまいそうなあの子。そういった子のいろいろな面を見ることができる、という点で行事ものが私の中で輝いてくることがある。やってよかったな、と。
 そうやって行事ものにさまざまな色を付けていく。それはまるで何でもないような日常の流れから物語を掬い上げるような営みである。
 学級という、閉鎖的になりがちな偶然の産物に対して物語の色を付けていく。私たちはどうしても無色透明のままでいられない。行事ものが終わった後にどんな色が見えてくるか、の方が重要なんだけども。