“そこ”から広がっていけ 『ゼルダの伝説 時のオカリナ』

 ニンテンドー64の登場は、まさに「次世代ゲームハード機」の到来を華々しく告げた、時代の転換点だったように思い出されます。初期主要タイトルの一翼を担ったのは『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年)で、当時の私は友だちがプレイする様子を横で見ていました。
 左から右へと向かっていく横スクロールアクションの時代から、突然360度全方位に広がる新次元に放り出された衝撃は、ローンチタイトルである『スーパーマリオ64』(1996年)でも感じたわけですが、私の興味は断然『時オカ』に向いていました。違いはどこにあったのでしょうか。
 今ぼんやりと思い出せるのは、「現実感」や「世界の広さの手触り感」の違いだったのではないか、ということです。

 『マリオ64』で冒険するステージは、城の各所に配置された絵画の中に広がっていました。マリオが絵画に飛び込むと、これまた360度全方位に広がる別の世界が広がっており、そこを縦横無尽に駆け巡ることができる……。そこにあったのは“次世代ゲームハード”の名に違わない世界でした。

 しかしながら、『時オカ』での世界の広がりと驚きは、その上をいっていたのです。『マリオ64』から2年を経ているわけですから、当然ゲームとしては様々に進化した部分があります。そもそも「マリオ」と「ゼルダ」では細かなジャンルの違いもありますし、両者を並べて単純比較すること自体がナンセンスなのですが、当時の私は「マリオ」の上をいく驚きを『時オカ』に感じていたわけです。

 『時オカ』の物語の最序盤では、主人公の少年・リンクがこれまで暮らしてきた“コキリの森”の危機を目の当たりにして自身の使命を自覚し、ハイラルの世界に踏み出す場面が描かれます。“コキリの森”はその名の通り鬱蒼と木々が繁る、どこか閉鎖的で閉塞感のあるエリアです。ゲーム内での設定上も、またNPCの言動や様子からも、その閉鎖性が伺えます。
 そんな森から、ゼルダシリーズの表舞台とも言えるハイラル平原に出たときの強烈な開放感を覚えています。同時に、マップの転換ではロードを挟むための暗転はありますが、世界全体が繋がっているという実感を強くもつことができました。また、ハイラル平原などの一部のエリアでは時間経過も再現されているため、ゲームでありながらどこか現実と地続きの世界がそこにあるように感じることができました。ある意味ではオープンワールド的な世界の広がりがそこにあり、次世代ゲームハードとしての面目は躍如するわけです。

 絵画に飛び込んで別の世界へという『マリオ64』から、広大なハイラル平原を中心に東西南北へとエリアがつながり続ける上に視覚的に時間経過も感じられる『時オカ』へ。そこにあったのはゲーム内キャラクターの実存感、プレイヤーとキャラクターの同化であり、世界の広がりを自分の操作で踏破しながら感じられる手触り感だったのでしょう。
 ゼルダシリーズが『ブレス オブ ザ ワイルド』と『ティアーズ オブ ザ キングダム』によってオープンワールドゲームとしての地位を確立するその20年ほど前から、キャラクターの実存感と世界の広さの手触り感が追求されていたのだろうか、と考えることがあります。きっとそうなのでしょう。
 シリーズの主人公を務めるリンクが寡黙とされているのは、プレイヤーとの同化を狙ったものだとも言われていますから。

 そして新作は、いよいよゼルダ姫が主人公。任天堂の看板を背負い続ける「マリオ」とはまた違った形で、TVゲーム史を創り続けるのでしょう。