学習と主体と校内研修と

 2024年もよろしくお願いいたします。

 2023年12月28日。仕事納めの日。本校の研修部長と退勤のタイミングが重なり、ついつい口をついて出たのが「次年度の校内研修については、思うことをちょっと文章でまとめてきますね。」という言葉でした。またその場の思いつきで自分で自分に宿題を課しやがってと思うのですが、でもそれをまとめておくことは、それはそれで役に立つだろうと思いながらこの文章を書き始めています。(追記:2024.1.3 20:40ごろ)


子どもを主語にした授業

 これが次年度にかけて重要なフレーズになるだろうと思います。子どもが主語。良い響きです。ただ、この響きの良さに甘えて、あるいは酔って、肝心の授業の実際がメタメタでは話になりませんので、まだぼんやりとしたイメージ的なこのフレーズの具体性を、もう少し引き上げていく必要があります。私たちが目指しているのはどんな授業のイメージなのか。
 いろいろなところに散らばっているイメージの断片をつなぎ合わせると、おそらくそこに立ち上がってくるのは“自立/自律的な学習者”の姿ではないでしょうか。うんうん、これもまた響きが良くて、現代っぽくて、要は“それっぽい”ですね。ここを足がかりに考えていきます。

自立/自律的な学習者

1 何を学ぶのかが分かっている(コンテンツの理解)
2 どのように学ぶかが分かっている(方法・方策の理解)
3 学ぶことによってどうなるかが分かっている(学びの有効性の理解)
4 以上を教室内で共有すること

 「1」についてです。とある先生が使われていた喩えをここで引きます。
 「武道の達人が弟子に、一見すると何を目的としているのかわからないような鍛錬を課す。弟子はその鍛錬に黙々と取り組む。目的が不明瞭でも、必ず自分に力がつくと信じているから。」みたいな話。厳格な師弟関係と信頼関係の乗算によって生まれる「一見滑稽に映るけど、すごく意味のあるトレーニング」というのはあるのでしょうけど、じゃあこれと同じようなことを学校現場に持ち込むと当然破綻する確率は高いわけです。これは「教えを授ける/教えを請う」という関係性の最上位ver.であり、そうそう簡単に達成できるものではないですし、何より学校教育の現場の実情との乖離がでかい。この乖離というのは「教えを授ける/請う」と「学校で学ぶ」という営為の乖離でもあるわけです。そのとある先生もまた、そういった課題意識からこの武道の達人と弟子の喩えを挙げていらした、という記憶があります。
 教師と児童生徒との関係構築や学級経営の重要性が言われている最近にあっては、この“何を学ぶのかが分かっている”状態を作り出すことは丁寧にステップを踏んで達成していく必要があるかなと考えています。1時間単位であれば課題提示の工夫などになるのでしょう。またもっと長期的なヴィジョンで考えるなら、単元ごとや領域ごとの目標について具体化していくことが必要でしょう。
 また「2」、「3」はそれぞれ“学習のプロセス”と“学習のゴール”と読み替えることが可能です。ただ、プロセスもゴールも、「1」を理解しておく必要があります。「こんな方法があるよ。」とか「こんなことができるようになるよ。」と伝えられた上で、具体の授業の中で、実際的な場面で実践していくことでより深く理解し、体得していくことができるのだと思います。コンテンツに関する理解とコンピテンシーに関する理解を両立させること、とでも言えばいいのでしょうか。少なくとも、以上のことが前提としてあるのかなと思います。
 「4」はもう敢えて何か言うようなことでもないような気がします。

選択する/させること

 1 場所
 2 時間
 3 協働/共同学習者、あるいは対話対象
 4 道具

 学習活動の中での選択肢は、年間を通して徐々に増やしていけるようにするのが望ましいと考えています。いきなり何もかもを選択させることは難しい。だからと言って狭い選択肢しかない状態や、少ない機会で選択させることをするのもまずい。そういう訳で、これも丁寧なステップを踏んでいくことが求められます。
 学習内容や単元によって、場所を選ばせる、時間を決めさせる、そういったことを繰り返していくことで、選択する主体となっていければよいのではないでしょうか。

運用の実際

 で、おそらく重要なのは、①自立/自律的学習者を育てること、②選択する/させること、の順序なのだと思います。
 つまり、学習者としての準備が不充分な状態では選択機会を保障してもそれが空振りに終わってしまう可能性が高いということです。高いというか、ほぼ100%失敗に終わるのではないか、とさえ考えます。
 ①自立/自律的学習者を育てることが最初の大きなステップであり、壁であろうと考えます。そして、このことをざっくりまとめてしまうと「確かな授業/単元づくり」に集約されるだろうと考えています。
 何を、どのように学び、どのような学びを得るのか、という見通しを教室全体で共有すること。文にすればどうということはない話に見えるのですが、これを実際の教室で再現するとなると、結構な難度です。ただ、今後はここに挑戦していくことで、最終的なターゲットである「子どもを主語にした授業」に近づけるのではないかと思います。


 ほんまかいな。まあそんなことを考えているわけです。

 北海道はもう少し冬休みが続きます。自分のペースで仕事を進めながら、もう少しむにゃむにゃ考えることにしましょう。