“元”という看板の重さ

 教職員、特に小中学校教員にとっては本当に冬の時代になってきているんじゃないかなと思うことばかりになりつつあります。なり手不足の根本的な解決方法は、そりゃあもちろんすぐには思いつかないわけです。お金をたくさん投入する以外で、という縛りがあるので。
 ただ、少なくとも私はまだこの職にしがみついていたい人であり(しがみつくしかなかったり、しがみついていたいと思い込んでいる可能性ももちろんあるわけですが)、そう思わせてくれるだけの魅力がこの仕事にはあるわけです。長大な砂浜の砂の粒から、光る宝石を掬い上げるような確率かもしれませんが、試行回数で確率を圧倒していくことを、多分、私はしているのだろうと思います。何せ、小学校は年間で約1000回の授業(給食を含めるとさらに約200の上積みです)があるので。
 最近はGIGA端末、要するに一人ひとりの児童生徒に配布されたパソコン/タブレットだとか、ICT機器の力を借りることもできます。いつ終わるとも知れない潮干狩りを小さな熊手やスコップでやっていたところに、重機、とまではいかなくとも、少なくともある一定水準以上の文明の利器を入れることができています。
 この長く険しい潮干狩りに疲れ果ててしまって、一度砂浜を離れて引きこもった時期があるのですが、それでもどっこいしょと腰を上げてまた宝石探しの潮干狩りを始めて3年半が過ぎます。それなりに楽しく潮干狩りをしています。

 もちろん、砂浜から離れて別の場所で別のことを始めた方々もいるわけで、そういった方々のお話はやっぱりメディアの海をたくさん漂っています。noteを始めてしばらくすると、レコメンドされる記事にまあまあの割合で「元教員の私が〜」とか「教員から〇〇に転職して〜」といったタイトルの記事が表示されるようになりました。世の教員の中で、転職とか退職は、“充分ありうる選択肢”として強固に根を張っているのだな、と思えるほどに。
 彼/彼女らのうちのどれだけが、実際に教職に就いていたのか。彼/彼女らのうちのどれだけが、報道や報告をはじめとするメディアの海に漂う雑多な情報で言われている「教師の苦難」を乗り越えて新天地に旅立っていったのか。その詳細な数字は分かりません。ただ、それはこの際、問題ではないように思います。

 彼/彼女らはなぜ“元教員”としての肩書きを背負って情報を発信するのか。このことについて、私はずっと「転退職という大きな節目において、自分という存在を思い返そうと箱を覗いたときに、思いの外すっからかんだったことに耐えきれなかったためではないか」と考えていました。
 それは確かに耐えられなさそうだな、と思います。私たちは多かれ少なかれ、教職特有のしんどさ、難しさ、つらさ、耐え難さを経験してきています。それらのしんどさたちが、いつかはきっと自分に何かを返してくれるだろう、自分を“何者か”にしてくれるだろう、と心のどこかで期待してしまいます。そんな淡い期待を軽々と裏切られたときに、“元教員”というなけなしの属性を看板に据えて、自分の新しいスタートを可能な限り粉飾しているのだろうと。そりゃあそうです。大学に4年間通って得た教員免許と、採用試験を経て得た職な訳ですから、そうそう簡単に捨て去れるものではありません。
 ちょっと意地の悪い推測だなとは思うのですが、でも私もきっと耐えられないだろうなという気がします。さすがに“元教員”の看板を背負って何かしようとまでは今のところ思いませんが、実際に抑うつで数ヶ月お休みした際には、自分の中に何も残っていない感覚がずっと付き纏っていました。空っぽでどうしようもないし、外に出る気も起きないし(コロナ禍だったし)、だったらせめて家事はちゃんとやろうか、みたいな感じでした。

 ただ、きっとそれだけじゃない、彼/彼女らは自分の箱のすっからかん具合に耐えきれずに“元”の看板を掲げることを決断したわけじゃないだろう、とも思うのです。

 教職しか経験していない私がどうこういう話でもないのですが、どうにも“教職”と“生き方”の距離の近さを思わずにはいられません。
 なんでもかんでも教材研究に結びつけて捉える癖があります。ドキュメンタリー番組から天気予報まで、ありとあらゆるものが教材に見えて仕方がない。人との接し方、話し方、捉え方などのコミュニケーション面において、どうにも“教師らしさ”みたいな空気が出ることがあります。たとえば結婚式にて、教員である新郎側の上司として登壇した校長先生のスピーチと、一般企業勤めの新婦側の上司として登壇した一般企業の社長のスピーチとでは、話の分かりやすさ、話の構成の巧拙に大きな開きがある場合がほとんどです。新婦側の友人は言います。「さすが校長先生、分かりやすくてしかもいい話だった!」と。何十人、ときに何百人の児童生徒を相手に話す経験というのは、そういうことなのです。
 教職経験が数年であったとしても、“教師の身体”とでもいうようなものが自分の中で形作られていくのです。教職を志してから、教育学部や教職課程に入ってから、教育実習に行き、晴れて教職に就いてから。さまざまな段階と節目のイベントを経て、私たちの身体は“教師”に近づいていく。そうして身体と生き方自体が教師になっていく。自分と一体不可分の“教師”という存在がそこにあるとき、「いや昔は教員をやってましてね。元教員なんですよ、ははは。」という台詞が口をついて出てくる可能性を否定することは難しいように感じます。

 “元教員”の看板を掲げて情報を発信するとき、そこには“教師としての身体”や“教師としての生き方”が背後に潜んでいるわけです。大変に重くて掲げるのも一苦労なわけですが、それを掲げて何かを成し遂げることの難しさや、それでもそうしようとした決断について、もう少し思いを馳せてもいいのかなと思います。