「独りじゃない」ことの証明 『かがみの孤城』

 辻村深月原作のアニメーション映画「かがみの孤城」を観ました。原作付き映像化作品としても、一本の作品としても、本当に素晴らしい映画だったと思います。このような映画にリアルタイムで触れられたことを嬉しく思います。

 原作は2017年(連載開始は2013年)、映画は2022年末に公開ですので、今更ネタバレに気を遣うこともなかろうと思っています。その辺りはご容赦ください。ご容赦しろ。

 鑑賞後にふと頭に「大人≠独立」という式が浮かびました。この式の源泉にして象徴なのが、こころの担任教師だと見ています。
 長期の不登校状態にあるこころの家庭を訪問するにも関わらず、彼は一人(独り)で現れます。実際の学校現場では、これはほぼありえない対応です。そしてこの担任教師は自身の”独”自解釈に基づく和解案を提示してしまい、こころの母親にバッサリ切り捨てられることになります。「次は学年主任か、校長と来てください。」と。
 この家庭訪問シーンで、担任教師と対照的だったのが、こころの母親です。直前にこころと共闘することを誓った彼女は「娘を独りにしてしまった負い目」+「自分もまた独りで対処しようとしたことのしんどさ」を抱えていたわけです。孤独のスパイラルからの脱却を果たすことで、親子としてようやく「あなたは独りじゃないし、私も独りじゃない」と強く実感できるようになったわけです(冒頭シーンに一瞬だけ映った父親についても、ここでようやく言及されます)。
 終盤、オオカミに食われてしまった仲間たちを探し、一人で城の中を探し回るこころでしたが、その時の彼女が決して”独り”ではなかったことは、原作あるいは映画を鑑賞した人であればお分かりいただけることでしょう。
 ”独りで立って”何かを成し遂げられることは、決して大人の証明ではない、ということ。孤独に押しつぶされそうなアキに呼びかけ、救い出すクライマックスシーンは「大人≠独立」の式をより一層強く打ち立てた瞬間だったように思います。

 原作のエピローグでは、孤独の淵から立ち上がり、その後をたくましく生き抜いた”アキ”のその後の物語が語られます。主人公・こころの物語から「アキの物語」へ移行したことで、原作の優しく柔らかい読後感が生まれます。
 一方の映画では、まさにラストシーン、全員がそれぞれの日常へと帰る段階では「リオンの物語」へと完全に移行しています。映画「かがみの孤城」としてのメッセージがここに表れているのでしょう。
 「大丈夫、大人になって」の言葉を発する人物が、原作と映画では変わっている(少なくとも変わったと解釈できる)わけです。オオカミさま=中学入学直前に病死したリオンの姉、という明確な描写がそれを補強します。
 「もう大人になれない私に代わって、大人になってね。それは決して”独りで”なんでもできることじゃなくて、誰かと共に歩いたり、闘ったり、歩きたいと思ったり、見つけたりすることも含まれるんだよ。」というメッセージなのかな、と思います。