「少人数学級」で繋がり始める私の経験

 学校教育界にまた新たなホットワードが生まれる。「少人数学級」。言葉自体はずっと昔からあるが,まあホットワードというのはそういうもんである。いつ生活綴方が学校の中に再び熱を帯びて現れるかは分からないが。
 多くの先生たちが待ち望んでいた福音であろう。同時に「それが根本の解決になるのだろうか」と疑問視,までいかなくとも,警戒の視線が注がれているのも事実である。そういう話をしたいのだが,なんと言っても現在の学校教育というのは「多忙感」「業務過多」「飽和状態」のオンパレードであり,せっかく今年度から教科書も変わったというのに,小学校では改訂指導要領が全面実施になったというのに,聞こえてくる声は「働き方改革」とそれにまつわる諸々のなんと多いことか。正直に言うなら,もう少し授業や学級経営の話がしたい。TTだから尚更。

 少人数学級の是非とか,そういう記事ではない。私が抑うつに沈んでいた以前と,そこからボチボチ戻りつつある現在とでは,その言葉の受け取り方,感じ方が微妙に,非常に言語化しにくい部分で違ってきている,という記事である。この記事は,誰に聞いてもらうでもない私のおぼろげで曖昧で,掌からこぼれ落ちていく砂のような話だ。

 子どもたちの間を漂う空気の質が,微妙に違ってきている。空気だから目に見えることはない。ただ感じるだけだが,その空気の発する臭気,肌触り,目に見えない色は,どことなく警戒心を感じさせる。子どもたちは何かに怯えている,恐れているのではないか。級友を,教師を,学級あるいは教室,そして学校という空間を。それらが自分に視線を向けてくる。決して温かな眼差しではなく,指摘と監視の視線。そういう冷たく重たく鋭い一対の瞳。刃の如き視線に対抗すべく,子どもたちは強くあろうとするが,その強さは弱さの裏返しでしかない。「弱いから強くなる」という決意に育まれた強さが決して強さではないことに気づかなくてはならない。本来,弱い存在であることを受け入れなくてはならないが,それは非常に難しい。

 子どもたちは弱い。私たち大人だって,教師だって弱い。その弱さを受け入れることから全ては始まる。しかし,警戒心に満ちた教室では,もはや弱さを見せることは失墜と同義であり,容易いことではなくなっている。

 さて,弱さを曝け出すことができなくなった空間にどのようにメスを入れるのか。それが「少人数学級」というのであれば,多少なりとも期待を込めて良いのではないだろうか。少しくらいは。私の経験は,そう言っている。