公開研究会の意義はそこに

 公開研究会が終わった。毎度毎度,幾ばくかの成果とたくさんの課題を見出すのだけど,それだと20代後半の頃から言ってることが何も変わらなくて自分にうんざりしてしまう。そうやって自己に向けられたうんざりを(自分の中にしか存在しないうんざりを)蓄積していくことで心身は限界を迎えることになるのだけど,まあ,そういう精神の自傷行為からもそろそろ卒業しておきたいところである。

 Twitterとかで観測される「働き方改革を掲げてその実際は部活動批判と教委管理職に丸投げっぱなしジャーマン」な人たちは大体「研究授業いらない」「公開研究会もっといらない」なのだけど果たして分かり合える日は来るのだろうか。来てもしょうがないんだけど。
 今回の公開研究会で,多分授業を公開したのはいろいろなものを含めて10回くらいになったんじゃないだろうか。授業を公開するというはやっぱりタフな経験なんだけども,「どうせやるならいっちょ張り切ってみよう」というタチなのは昔からなんだなあということを再確認する。このあたりの感覚をいまいち共有できなかったりすることもあったけど,まあ,それも今更だなと思う。そもそも難しい話なんだから。

 学級経営にしても授業にしても「外に開いている状態」であることの方が望ましいというのが実感である。外に開くメリットは,そのデメリットを大きく上回るだろうから。
 外に開くことで集まってくる様々な意見。それが今回の公開研究会では「みえ」という言葉に集約された,と思っている。私は,あなたは,彼/彼女はこの授業をどう見た/観たのか。たくさんの一対の瞳。その瞳の集合から捻り出される新しい「みえ」があること。それは多分「可能性」という便利なものに発展していくだろうな,と思う。あり得た授業の姿,どこかで分岐した授業の姿。それはそのまま目の前の子どもたちの姿になっていくのではないだろうか。
 一対の瞳。授業を見て,眺めて,考える双眸。その数が多ければ多いほど可能性というある種の怪物は大きく育つ。怪物がそのまま怪物となるか,また別のものになるかは,まあ,今はそっとしておくけれども。