思いつき指導記録:ことば,そしてゲーム
もう,仕事柄(仕事柄?)Fから始まるバトルロイヤルゲームだかTPSゲームだかのトラブル話には事欠かない。事欠かない,と言っているけど内容がワンパなので実際「またかよ」とも思うんだけど,繰り返しはこの職業の常なので,そういうあけすけなことはひとまず傍に追いやって,いろいろ考えたり話したり,最終的に指導まで持ち込むことをしている。
で,ガッコのセンセのゲームについての指導ってのは,対象の側面から「児童生徒」か「保護者」に分類される。内容の側面からは「情意面」か「システム面」か,みたいな雑な分け方を思いついたんだけど,正直「情意面」からの指導しか思いつかないし,それくらいしか見たことがない。多分。まあ,実際難しいんですよ。魅力的なゲームにのめり込んでいく人間を前にすると,情意もシステムも,大人も子どもも,簡単に八方塞がりになっちゃう。
題名に戻る。もういろいろ指導はしてきた経緯があるので,なんとか切り口を変えられないかと思って,ほとんど思いつきで「最近,ことばとゲームが離れていると思う」と言った。思いつきで喋ったことに縛られるのはいつものことなので,自分のこの説をなんとか補強できないか考えている。ゲームは,ことばを取り戻すべきだ。ことばを失っていないゲームもあるかもしれないけど,もっと全面的に取り返していこうぜ。そう思う。
私の思いつきの根拠になったのは(うわっ弱そう),Fから始まるTPSはことばに依らないプレイを可能にしているんじゃないか,という仮説である。ド偏見丸出しで「まあ要するに相手プレイヤーのアバターを蜂の巣にするかミンチにするかしてぶっ倒しゃいいんでしょ?」ということで,そのプレイにことばがどこまで介在しているのか,という疑問がある。
これと同じような感覚を,高校生くらいの頃に「モンスターハンター」シリーズに感じたことがある。今の今まで一度もモンハンをプレイしたことがないのは多分そのせいで,プレイ時間を誇るようなTVCMには嫌悪感すら抱いていた。武器を持って鎧を着込んでバカでかいモンスターをぶっ叩きに行く。そこにことばがあるんだろうか。てかモンスターだから喋らないよな。噛み砕いて踏み潰して炎吐くのがコミュニケーションみたいなところあるよな,あいつら。
うっすい思いつきを得た今なら断言できる。「プレイ時間を誇りたくなるのは,ことばに依らないゲームだからだよね」と。
少なくとも,自分が触れてきたゲームには「ことば」が手触りとして,匂いとして存在していたと思う。「ことば」とひらがなにして比喩的に(カッコつけて)書いてきたけど,もう少しわかりやすくするならそれは「物語」の手触り,匂いだろう。
私が本格的にちゃんと遊んだ最初期のゲーム,となるとFF7とかポケモン赤緑くらいになるんだけども,画面上にはもちろん,と言うか当然「ことば」がある。主人公達の旅,その道中のディテールは「言葉」では語られないが「ことば」を自分で紡ぐことができた。ゲームの中の余白。そこを「ことば」で埋めていく。その営みがなんだか愛おしかった。そんな思い出がある。
わかりやすさとプレイにおける射幸心の最大化を追求した結果,ゲームとことばはどんどん離れていった。スマホゲーの登場もこれに拍車をかけていったんだろうな,と想像することができる。トントンと指でタップすればゲームは進んでいく。それはことばから離れていくリズム。
君たちのゲームには,ことばがあるかい?
ことばを大切にしているゲームかい?
子ども達に,そんなふうに聞いてみたい,気もする。