「読む」深層についてと評価主体 ある公開研修会の報告

 ある小学校の公開研修会に参加しました。(23.12.8)
 その報告です。報告?

 参観したのは4年生の国語。そうです。『プラタナスの木』です。このお話が私のnoteに出てくるの3回目だぞ。どうなってんだ。
 4年生・国語・物語なので、登場人物の心情変化や変容を、叙述と結びつえて捉えていくことを単元で目指していくわけです。ざっくりと「書かれていないことを、書かれていることを根拠にして考える」活動です。
 主人公のマーちんが物語の前後でどのように変化したかを叙述から見つけ出す、さらにその変化はどのようなきっかけを背景に持っているかを考える、そうしてたどり着いた結論は、「マーちんは、おじいさんとの出会い、帰省先の台風の経験、プラタナスが切り株になったこと、の3点によって、木への思いを強くし、自然に対して愛情(のようなもの)を抱くようになった。」となるわけです。
 ……この“解釈”に対してやいのやいのするのが、一昔前の国語授業の研究協議だったかな、と記憶しています。それって、間違いなく楽しいんですよね。大の大人たちが一つの物語を巡って、あるいは特定の一節を巡って、あーなんじゃないかこーなんじゃないか。酒が入るとなおいいですね。
 ただここに“授業”とか“単元”が挟まってくると、解釈自体は実際どうでもよくなってくるのです。物語を解釈する力と、授業や単元を構成する力は必ずしもイコールにはならない。イコールになり得ない、のかもしれませんが。
 当日参観した授業がどうだったか。授業が進んでいく中でじわじわと効力を発揮してくるのが“単元”の構成のされ方です。単元の終わりという最終的なゴールに向けて、道標となる必要な知識や技能、思考の足がかりや判断の見通しになるものが用意されていたか。この、布石を打つとでもいうべきこと、「必要なアイテムを道中にちゃんと配置しておく」ことが計画された単元は、“やりたいこと”や“教えたいこと”、とどのつまりは“身に付けさせたい資質・能力”が明確でブレがないので、とてもスッキリした印象を与えます。そういう観点から、粗はありながらもよい授業だったのではないかと思います。

 例えば、子どもたちが使った“きっかけ”という言葉。登場人物なり物語の流れなりに変化・変容が発生するためにはどうしてもこの“きっかけ”が要求されます。他の3人の登場人物とは違って、主人公のマーちんだけが、「台風に動じることなく集落と山と周囲の環境を守る木々の姿」を見ており、これが物語の中で重要なきっかけとして意識されるわけですが、そもそも「台風にも動じない強固な木々」を意識するためには、「おじいさんが語った木の根の話」が必要であり、さらに「プラタナスの木が台風で折れて切り倒されてしまったこと」でもたらされる大きなショックが必要になります。これら3つの要素を堅固に結びつける役割をしたのが“きっかけ”という言葉なのですが、本単元では単なる言葉ではなく、“学習用語”にまで高められていた、高めるための手立てが単元に位置付けられていたと見ることができます。
 そしてその“きっかけ”たちが物語の中で線を結ばれて浮かび上がってくるとこを、一人の男子児童が「なんか、全部つながってるね。」と表現し、つぶやく。もしかしたら、本授業のハイライトはこのつながりが見えてくることだったのでは、とも言えます。作者の配置した仕掛けたちが一つの像を結ぶ瞬間を読書経験の中で実感すること。それこそが「ああ、物語って、読むって面白いな」という感覚につながっていくのではないでしょうか。

 続けて、講演会にも参加しました。当小学校の校内研修に継続して関わっていらっしゃる大学の先生のお話でした。とても刺激的で、勇気をいただける内容だったと感じます。

 大きくは“評価し、価値づける主体は何なのか”というテーマであると見ています。誰が、何が、誰を、何を評価するのか。そういった評価と価値づけの波が寄せては返す教室という時空間において、教師の役割はどのようであるべきなのか、と。
 評価主体が一定ではない教室、評価対象が常に変動する教室、というのを想像してみます。必要なのは「最終的なゴール」とか、「到達したい水準」とか、そういったものになるのでしょう。そこに向かっていくわけですが、じゃあ教師はその教室空間内でどのように振る舞うべきなのか。

 壁。打ち返す者。観測者。
 具体的な授業場面で実践していかねばならないのだろうなと思います。ただそれは、中長期的なヴィジョンの中で達成されていくもの、実感されていくことなのだろうと感じます。“子どもたちに委ねる/預ける”とか、“自己調整能力”とか“メタ認知”とか、あるいは“ウェルビーイング”とか。そういった言葉たちが頭の中をぐるぐるしますが、それはやっぱり具体的な授業場面を想定できていないことに起因する逡巡なのでしょう。
 また次の授業が私たちを待っています。