授業を観るために

 学校の先生になりますと、わりと他人の授業を観る機会が発生します。経験年数に依存するのですが、特に若年層教員の多くは「ちょっとあの先生の授業観ておいでよ。」なんて言われて、勤務校の授業力がある(とされる)先生の授業を覗いたりするわけです。
 学校によっては、不定期で公開授業を行なっていたり、公開研究会と題して大々的に授業を公開していたりしますから、そこに送り込まれることもありますし、自分で希望して赴く場合もあります。

 そんな「他人の授業を見る機会」の事前には、大抵何かしらの視点をもっておきなさいという、「こういうところを見てくるといいよ。」という助言を受けるわけです。このときの常套句が「自分だったらこうするなあ、と思いながら観るといいよ。」です。私自身も若い時分にこのことはよく言われていました。きっと、これを言ってくれた先輩の先生も、きっとその先輩から同じようなことを言われたのでしょう。連綿と受け継がれる「自分だったらこうする」の魔力。あるいは呪力。
 この「自分だったらこうする」という視点について無批判に取り入れて実践してきたわけですが、改めて「授業を観る」という営みの中でこの視点をどのように機能させていけばいいかを考えていきます。

 まず、「自分ならこうする」の“自分”が、どこに立っているのかという前提の話があります。多くの場合は自分が現在担任している学級、あるいは過去に担任した学級、という場合が多いでしょう。公開研究会などで、自分が担任している学年と同じ学年の授業を参観する場合は多いと推測されます。そうなると「自分ならこうする」が非常に成立しやすくなります。
 ここで最初の落とし穴が見えてきます。自分の経験したことからしか考えられない。視野が限定された状態で授業を観ることになってしまう。自分の経験に強く依存した状態で他人の授業を観ることになる。「自分ならこうする」という、連綿と受け継がれた授業参観の金言に、不遜な色が混じってしまいかねなくなります。どことなく、スポーツの試合を見ながら監督の采配や選手起用にケチをつけて野次を飛ばす観客の空気が醸し出されるような気がします。できる限り、そのような狭窄した視野で授業を参観するのは避けるべきでしょう。

 もうひとつ、観る授業を選ぶ際の基準になるのが、教科・領域です。国語、社会、算数や、道徳、総合、特別活動。自分がこだわっている教科・領域の授業であれば、優先的に参観したいという先生も多いことでしょう。
 ただこれもやっぱり厄介で、教科・領域の特性だったり“ツボ”のようなものであったりを(程度の差はあれ)理解しているわけですから、実はこれも視野を限定してしまう危険性を常に含んでいます。もっと下手を打ってしまうと、「この教科・領域の本質的なところは〜」と、周縁の要素を全てすっ飛ばしていきなり本丸に砲弾をぶち込むような議論に突入。周囲は置いてけぼりを喰らう可能性があります。言ってしまえば地に足のつかない授業の話、方法論や解釈論、授業構成論についての話になってしまい、さてあの45分ないし50分はなんだったのか、ということに陥ってしまう。

 授業の“やり方”は、先生たちにとって大切なことなので、その分若年層教員に伝えたいこともたくさんあります。しかし、授業の“見方”、“参観の仕方”、となると、あまり多くのことを話せなくなってしまう事態があるように思います。”やり方”と“見方”は表裏一体にして不可分のものだと言えますから、このことについてはもう少し、皆さん職場で考えてみてはどうでしょうか。