「教師」と名乗るのは怖すぎて

 むちゃくちゃ怖くないですか。私はむっちゃ怖いんですよ。だって「師」ですよ、「師」。漢字から発されるエネルギーは、「教諭」「教員」「教師」の3つに明確な境界線を引いているように思うのです。

 こういう話を思いついたのも、きっと3月という季節の成せる業なのだろう。3月にはドラマが生まれる。生まれてしまう。というか、ドラマをなんとかして見出そうとしてしまう。どこまでも”意味”を求めて彷徨うのが人間の悲しき業なのであろう。”意味”つまりは”物語”である。
 1年間。児童が小学校に通うのは大体年間200日。200日間の物語は事実の積み重なりでしかないのだが、やはりそこに物語を求めてしまうのは、避け難い。「何かしら意味があったのだ。」と思わなければ、膨大な質量の200日間に、生身の人間は、脆弱な精神は、耐え切れない。

 教員の宿業としての物語は、自分ひとりだけでは済まないのが難儀なところである。200日間の物語は人の数だけ紡がれている。一つの教室。40人の児童。40編の物語。その物語を、教員がたった1人で受け止め切れるのか、という話である。私もそういうことに挑戦こそしたが、やっぱり難しい。物語とは人生そのものであって、複数の人生を背負い切れるほど人間は強くないことを分かっていなかった。なので抑うつで休んだりしたのである。

 ああ、「教師」と名乗る人であれば、「教師」としての自負がある人ならば、この幾つもの物語を背負って生きていけるんだろうな、と思う。あるいは、40編の物語を「教室の物語」として統合し、かけがえのない新たな物語として昇華できるんだろうな、と思う。

 あと数週間もすれば、自分もまた「教師」への新たな挑戦に向かっていくのだろうな。