自己否定

 「自己否定はやめようね」と思ってやめられるようなヤワなものだったらよかったのにな,というのは最近よく思うことの一つで,ずいぶんと厄介なものを抱えてしまっている人が多いなあという印象である。多分自分もそうだ。

 「自分はなんてダメなんだ」「こんな人生に意味があるのか」というのが自己否定なのかと思いきや,多分それは自己否定のほんの一側面でしかない,というのがここ最近の実感だ。それは非常にわかりやすい自己否定の形。自分の生きる意味だの存在意義だのを疑問に思い否定することは,多くの人にとっての通過儀礼めいた感傷でしかない。自己否定とは,もっともっと,その人の生活のそこかしこに,消えないシミのようになって張り付いているものであろう。

 気がつけば10分くらい歯を磨いているとか,常にどこか掃除するべき場所はないか探し回っているとか。風呂やシャワーを何度も浴びる。皿を洗うたびにスポンジに洗剤を付け直す。ここまでなら「ずいぶん綺麗好きな人だな」で済むと思うだろうが,そんなことで済まないのが自己否定の厄介なところだろうな,と思う。

 行くところまで行けば「出かけるときにちゃんと玄関の鍵を閉めたか」が気になって仕方なくなる。「何か忘れ物をしたんじゃないか」と気が気ではなくなる。ストーブは,水道は,テレビは消したか。冷蔵庫が開きっぱなしになっていないか。自分の目と手と意思で,それらを遂行したはずなのに,疑わしくなって仕方がなくなる。
 最近特に思うのは「断捨離」「ミニマリスト」あたりもこれに連なっているんじゃないかなということで,そうだったらちょっと距離の取り方を考えなくてはならなくなる。

 全ては「過去の自分を否定する」ことから始まる。そして自分を否定することでしか自分を肯定できなくなる。虚しい矛盾だなと思う。「鍵は閉めたっけ」→「ああやっぱり閉まっていた,一安心/閉まってなかった,気づいてよかった」。どっちに転んでも一定の安心感が得られるが,その安堵は過去を,もっというと数分前の自分を否定することで得られる。

 なんとか,この「自己否定→空虚な安堵」の連鎖を断ち切れないものか,思案することが多くなった気がする。過去も未来も大した意味はないのに,それに縛られるのはやっぱり厳しい生き方だなあと思う。