「忘れられない過去」ではなく 『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』

 この世で最も黒く、最も邪悪な絵画をめぐる奇妙なストーリー。
 ※物語の核心や結末に触れている可能性があります。何が核心で何が結末かは分かりませんが。

 人を本に変え、その記憶や思考を読んだり改変したりできる特殊能力「ヘブンズドアー」を駆使する人気漫画家・岸辺露伴が、好奇心から窮地に陥るのはTVシリーズと同様です。しかし、怪奇現象とそれによって引き起こされるドタバタというよりかは、”過去と現在”に焦点した構成であったことがTVシリーズとの差なのかなと感じました。

 若かりし頃、ある女性からこの世で最も黒く邪悪な絵の存在を聞いた露伴。時は経ち、新作執筆の取材過程である黒い絵画を手に入れます。この絵画がきっかけとなり、彼はルーヴルでの取材を決断します。
 鑑賞後に感じたのは、

「あなたは過去を忘れるかもしれないが、
過去は決してあなたを忘れない」

 ということでした。
 過去に犯した罪、過去に感じた”後悔”が、当の「黒い絵」を通して登場人物たちに襲いかかります。恐れ慄き、悲しみ、そして倒れていく。過去も死者も決して沈黙はしていないということ。過去は実はそこにあって、死者は実はそこにいて、私たちに眼差しを送り続けているということ。
 ……”という私たちの認識について”考えています。何かしらの作品を作り上げることは、あるいは何かしら行為するということは、過去を忘れないためでもあります。ただ、人はどうしても忘れてしまいます。現在から過去に向けての眼差しは時の経過によって徐々に弱まっていき、それと反比例するかのように過去からの眼差しは強まっていくのでしょう。それは「恨み」とか「怨念」と呼ばれるようなものですが、本作で描かれていたのはまさにそんな私たちの認識なのだろうと思います。
 このことは露伴が映画冒頭ですでに述べています。要は「リアリティ」。まさに”そのもの”が”ここ”にある、”そこにいる”と認識すること。その認識の中に過去や死者が入り込むことだって当然あるわけですが、私たちは、実は言葉で言うほどちゃんと過去にリアリティをもたせられていないのではないかと思います。

 だからこそ。リアリティが薄いからこそ。
 過去や死者にまつわる思い出を、手触りのある、実態をもつものとして認識すること。それは残酷でグロテスクなものかもしれませんが、時にもっとポジティヴな関係に読み替えることもできるのかなと思います。ルーヴル美術館職員のエマの前に現れた息子・ピエールについて、泉京香がポジティヴに読み替えたように。

 過去と現在を強調する色使いとライティングについてもいろいろ考えたかったのですが、これについてはもう一回観てからにしておきたいなと思いました。黒い絵と鏡の対比とか。