「ゆるく」も「きっちり」もできないぼくたち

 学校はもっとゆるくてもいいんじゃないか,と話題が提起されたが,まあそれってどうなんでしょうね。ざっと眺めてみても,議論というか話の射程距離がめちゃくちゃで,一体何の話がされているのかがよく掴めない,というのが最初の印象だ。で,その最初の印象は大抵の場合,私に強烈なバイアスを刻み込み,閉じ込めてしまう。

 学校をゆるくする,というのは基本的に賛成なのだが,ゆるくするってのははちゃめちゃに難しい,ということがあんまり理解されていないのではないか,というのが所感である。簡単に「なあなあ」に堕すから。

 じゃあ,学校をもっときっちりかっちり,きつい空間にするか。それもまたはちゃめちゃに難しいのだ。簡単に「強制力を発揮して他罰的になる」から。
 そしてこの難しさは,ゆるくすることの難しさと同じものから出発している。おそらく,多分,いや絶対に。「ゆるい」も「きっちり」も,同じものを母とする概念だ。それを忘れたまま「こうすりゃゆるくなるだろ」「これがきっちりのスタンダードだ」とか言い出すと,ぼくたちは簡単に泥沼に鼻まで浸かってそのまま窒息する。

 自分なりに「ゆるく」と「きっちり」の共通の母がなんであるかの答えはあるのだが,それを公言する資格はまだ私にない。でも皆さん,結構すぐに気がつくんじゃないかな,そう思っている。