建築の非唯物論-①

建築という対象“そのもの”の美学について論じること。これが今後連載していく一連の記事の目的である。現代建築の議論においては、“関係性”や“コンテクスト”等の外在的な要素ばかりが注目され、建築という対象そのものの存在論的な議論は十分になされていない。その一方で現代思想の理論パラダイムは実在論へと向いている。その実在論とはカンタン・メイヤスー、イアン・ハミルトン、レイ・ブラシエ、そしてグレアムハーマンらが提唱する「思弁的実在論 Speculative realism」であり、このうち特にハーマンの「オブジェクト指向存在論 Object-Oriented Onthology」を参照しつつ独自の建築論を展開したいと考えている。ただし初投稿となる今回は、現代建築に対する自身の問題意識についてゆるく書き、今後の方向性を示したい。

■問題提起:過剰接続、建築の消失

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スタッドシアター・アルメラのドローイング by SANAA   『10+1 website ライトストラクチャーの可能性』 より引用 http://10plus1.jp/monthly/2016/10/sasaki6-2.php

現代建築の議論においては、建築という対象そのものの美学や詩学ではなく、建築によって生じる関係性の新しさが争われるばかりである。建築家たちが思い描いているのは<閉じられた箱>ではなく<開かれた場>であり、その建物がなんであるかという名詞的存在性よりも、人々がどう交流するかという動詞的意味を重要視する。公的なプロポーザルやコンペティションでは特にその傾向が強くなり、それゆえにコンペに挑む人々はそのプレゼンテーションにおいて「多様なタイプの人々」が「開放的な外部」で「様々な交流を行っている」ユートピアをポエティックなドローイングで表現せざるを得ない。そこでは建築の実在性は捨象され、代わりに空虚なヴォイドで繰り広げられる薄っぺらなコミュニケーションの話か、あるいは表層的なファサードの話ばかりが繰り広げられることになる。

この評価軸は大学の設計課題においても同じである。大学の設計課題でいい点をとろうと思ったら、細かい装飾へ向ける彫刻的努力を放棄することが求められる。その代わりに真っ白なホワイトボードをカットして箱をつくり、その箱を様々に組み合わせる。次に、大きな開口を開けることでその箱を解体する。最後にそれらを少し工夫して配置し、「中間的な領域」をつくればいい。この中間領域に机やいす、老若男女の添景を配置するとなおいいだろう。そして「箱ではなくその中間的な領域が人々の豊かなコミュニティの場であり、この『場』こそが建築の本質である」…そのようなプレゼンを、課題テーマごとに少しアレンジすればそれでいい評価がとれてしまう。あるいは、敷地周辺をリサーチする。そのリサーチ内容は、正しくても間違っていてもいい。とにかくリサーチして、そこで得られた(と勘違いしている)コンテクストを利用して建物をかたちづくっていく。この中間領域の生成とコンテクストへの志向は設計教育のテンプレートとなっているだろう。

即ち、そこでは建築のフォルムはたんに外在的な関係性の結果に過ぎないとみなされているのである。より簡単に言えば、建物そのものが「かっこいいかどうか」は主観的で低俗な話題としてほとんど評価されないのである。

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51C型プラン 『Renomama マンションの間取りの歴史』より引用https://www.renomama.jp/encyclo/used_renovation/apartment_history_20150918/

ーコンテクストと関係のパラダイム、それに伴う建築の実在性の消失ーという問題は、確かに、かつては人々を解放するための肯定的意味を持っていたように思われる。公営住宅標準設計51型、その戦後に大量生産された住まいのかたちは、日本型の近代家族の容器の原型として、即ち「箱」として私たちの生活をパッケージ化してきた。また、ミースの「ガラスの摩天楼」を原型として大量生産されてきたオフィスビルは、土地面積を垂直に最大化し、水平の床を積み上げて収容する“人間の容器”となった。ここにおいて、「箱」としての住まいから「箱」としてのオフィスへの移動をただ繰り返す、私たちの抑圧された生活様式が完成する。80年代以降の建築の主な課題が、この抑圧からの解放であったことは間違いなく、だからこそ彼ら建築家はパッケージ化された「箱」を解体して開き「場」を生み出すことで、失われたコミュニティを取り戻そうとした。切断された人々を再び接続しようとしたのである。そのために彼らは関係性及びコンテクストという概念を利用していく。これらの大きな流れの中、例えば原広司と山本理顕は世界中の集落を調査し、オイコス(私的領域)とポリス(公的領域)の間で二つを緩衝する無人領域に注目し、これを「閾」と呼び自らの設計に応用していく。この目的とは、明らかに閉じられた私的領域を公的領域へと繋ぐことである。伊藤豊雄は、建物に有機的な関係性を求めていく。仙台メディアテークはそのもっとも純粋な形式である。また、瀬島和代は弱いキューブをコンセプトにする。箱としてどっしりと存在する建築ではなく、周辺環境に影響を受けるゆるさを持った建築を構築しようとしたのである。その十数年後、平田晃久は「建築とはからまりしろをつくることである」と提唱し、石上純也が柱の関係性のみで建築空間を構築する(神奈川工科大学KAIT工房)ことになるのである。

彼ら著名な日本人建築家の手法や態度は一見多種多様に見えて、関係主義者およびコンテクスト主義者となって建築の実在性を捨象しているという点では同じである。そしてこの接続性、ネットワーク性への志向は、ドゥルーズがリゾーム概念を提唱した80年代以降、建築分野に限らず様々な分野における思想の主流となってきた。

以上のように、コンテクストと関係性を重視する傾向は今や建築を学ぶ者の思考の隅々を支配しておりそれ自体を否定することは難しい。しかしながら、この傾向の中で建築という対象そのものの美学についての議論が無視されてきたことについては考えていく必要があるだろう。僕のこれからの記事では、近年の思想的潮流である新しい実在論を参照にして、建築の議論を対象そのものに引き戻したいと考えている。

次回は思想的潮流のうち特に議論の中心として据えたいと考えている『オブジェクト指向存在論』についてまとめていく。


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