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『おつかれヒラエスお夜食堂ーあやかしマスターは『思い出の味』であなたを癒しますー』第5話

第4話

第5話

「お待たせいたしました」

 そして再び、私の元にカレーが出てくる。
 調理時間の短い、角のはっきりしたジャガイモが目に入った。
 ルーを使っているけれど、その汁は見るからにさらっとしている。

「いただきます」

 私は手を合わせて食べ始める。
 前回と全く同じカレーだ。
 2回目なので、今回はしっかり味わって食べる余裕がある。
 やはり母の癖がよく出たカレーだった。

 カウンターの向こうにマスターがいる。彼はこちらが食べにくくない程度の距離感で、飾られた食器を磨いている。

 ーー神様って彼のことなんだろうな。
 なんとなく見つめていると、マスターと目が合う。
 控えめに首を傾げて微笑み、彼は私に話しかけた。

「短い時間で手早く作ったものなので、味は染み込んでませんが。どうですか?」

 普段なら店の人と話したりはあまりしない。
 けれどーー神様だから、まあいいか。
 私は非現実的な彼の彼の問いかけにーー自然と、心のままに思ったことを口に出していた。

「そうですね。……煮込んでわかりやすく手が込んだ、凝ったカレーも好きですけど……カレーってなんだかんだ、どんなカレーもカレーですよね。市販のルーそのまんまって感じの味で、特に凝ったこともしていないのでも……美味しい、ですね」
「それはよかった」
「っ……あの」

 私は思い切って彼に告げた。

「……このカレー、私、ずっと好きだったものに似ています。……母のカレーに。どうしてわかるんですか? 私だけの『思い出』が」

 彼は答えなかった。
 ただにこりと微笑むのみだ。

「……話、聞いてもらえませんか」

 私は自然と口を開いていた。
 ここで彼に気持ちを吐露するのが、まるで欲しかった料理を出してもらえたお礼のような気がしたのだ、なんとなく。

「母はずっとフルタイムで働いている人でした。けれど……母の時代はまだまだ、働きながら家庭を持つって社会も父親も、みんな理解してくれない時代で……」

 仕事から帰って、父がごろ寝をしてテレビのナイター中継を見るところで、大急ぎで作ってくれるカレー。
 米だけは朝炊飯予約ができるけれど、煮込むカレーなんて作れない。
 レトルトのカレーでもいいのに、帰宅して、すぐに作ってくれたカレー。

「思春期の頃、私それがすごく嫌だったんです。疲れて帰ってきて、野菜をわざわざ切って煮込んで、手料理なんて作らなくていいよって。……愛情が重たくて。だからと言って手伝うとお母さんは『いいのよ』って」

 手伝う代わりに、私が勉強をした方が母は喜んだ。
 父は私に勉強をさせず、進学もさせないつもりだった。だから塾も行ったことはない。それでも母は父を無視して、私の学費を稼ぎ、料理まで作ってくれた。
 母のその行動に、私は何かーー大きな感情を託されているような気がしていた。

「なんだかすごく『借り』があるような気がして嫌で。母の求めるままに振る舞うのが嫌で、二人で並んで家事をしていると父も『いい嫁になるからいいな』って機嫌が良くなるから、面倒がなくて楽で。……でも、母は私にいつも言っていたんです。…………勉強は必ずしなさい、努力が報われる立場になりなさい、って……」

 ーー私はカレーを口にする。
 母は私に、同じ思いをさせたくなかったのだろう。

 ーー私がなぜ仕事を必死にするのか。
 家事と仕事を必死で頑張って、育ててくれた母に報いたかった。

「お母さんが……仕事で悔しい思いしながらも……私を頑張って育ててくれたから……それは、正しいことだったんだよ、絶対間違ってなかったんだよって、言いたくて……」

 母は何かにつけて言われていた。
 仕事をして娘を大事にしていないからよくない、と。
 仕事を優先にして派手にしているからよくない、と。

 母は呪いの言葉を振り払うためのように、できる限りお惣菜には頼らず、必死に手料理を作ってくれていた。
 煮込んだ祖母の料理とは違う、すっきりとした味で、優しいカレー。

 ーー主婦で、母で、社会人で。
 当時の定石の生き方をしていない母は必死だった。

「お母さんだって大変だったのに……だから無理がたたって……」

 母としての戦場と、社会人としての戦場で戦っていた母の味。
 母は販売員として男性社員に負けないくらい必死に働いていたけれど、彼女の売り上げは上司の成績になり、彼女はいつまでも、上司の出世の道具でしかなかった。正社員にいつかしてあげる、の言葉でずっと頑張り続けて、最終的には体を壊して、定年後すぐにーー。

 母の何が悪かったんだ。何も悪くない。
 母はただ、必死に生きていた。

 私はカレーの味と『思い出』に夢中になって、そこにマスターがいるのも忘れて口にしていた。

「……だから私は……就職して、女性でも管理職になれるスタートアップしたての会社に入ったんだ……思い出した……」

 就職の時、私が真っ先に考えたのは性別が不利にならない会社に勤めることだった。私は会社の気風が若い、若い社長の会社に入った。
 ブラックといえばブラックだ。
 けれど少なくとも、成果さえ出せれば女性であっても出世の邪魔をしない。
 どんな安定した大企業だと言っても、私がほしいのは仕事の成果。
 とにかく私が母の代わりに、社会的な成功を掴みたかった。

「母の生き方も子育ても、間違ってなかったよと証明したくて」

 私こそは、ちゃんと社会で仕事で認められるようになりたくて。
 その姿で、お母さんの仇を討ちたいような、そんな気持ちだった。

「お母様の人生も背負っていらっしゃったのですね」
「はは……こんなに肩肘張って生きるの、今時変だってわかってますけどね」

 私は自嘲する。
 もがき苦しんだからって、何も手に入れられていないのに。かっこ悪い。
 そしてこれ以上泣かないように、私はカレーに話題を切り替えた。

「でも、びっくりしました。煮込まなくてもカレーって意外と美味しいんですね」

 子供の時はもちろん、カレーは美味しいと思って食べていた。
 けれど大人になって食べても、あまり煮込まないさらっとしたカレーは意外と美味しく感じられた。流し込むように食べるのではなく、しっかり噛んで野菜の味を味わって食べるのが、新鮮だった。

 マスターは銀髪を揺らして頷く。

「ええ。煮込んだから美味しいってよく言いますけど、素材の味は煮込まない方がむしろしっかり残るから、あえて煮込みすぎない調理法を選ぶ人もいるんですよ」
「へえ……」

「煮込んでとろとろのカレーが美味しいからって、反対のさらっと火を通した素材の味が残ったカレーが美味しくない理由にはならないんですよ。せっかく色んなカレーの作り方があるのだから、美味しいならどれでもいいんです」
「そうですね。……具材の色も鮮やかだし、なんか可愛い」

 掬い上げたごろごろのにんじんは鮮やかな朱色を保っていて、ジャガイモは白くて、玉ねぎも透き通って存在を主張している。

「誰もが当たり前に受け入れる『定番』だけが未来を作るわけではありません」

 マスターは言う。

「お母様のやり方は、当時は珍しい母親像、育児のやり方だったかもしれません。けれどだからって、成長したあなたは立派にお母様から大切なものを受け取って大人になられた。そうですよね?」
「……そう、思いたいです」
「ならば思えば良いではありませんか。とろとろの煮込まれたカレーじゃなくても、シャッキリしたカレーからもお客様は幸せでしたよね」

 目を細め、彼は微笑んだ。

「もちろん、とろとろのカレーが『定番』だと思う方も多いでしょう。けれど『定番』なんて、意外と全てではありません……知っていましたか? 知っていましたか? カレールウも最初は甘いものを作ろうとして大反対を受けたのです」
「そうなんですか?」

 私は目を瞬かせる。

「カレーって昔から子供が好きなものじゃ……」
「全然! カレーって辛い食べ物でしたもん! 子供向けなんて、ぜぇんぜん」

 そこに割り込んできた明るい声は、女中姿の女の子だ。
 マスターはにっこりとする。

「生き証人もこう言ってます」
「い、生き……?」

 なんだか不思議なことを暴露された気がする。
 女の子は一言だけ言いたかっただけらしい。彼女が去ると、マスターは説明を続けた。

「ええ。実は違ったんです。けれど今では……カレーといえば子供が好きなものの代名詞。型破りな甘いカレーが『定番』を変えたんです」
「そうですね……そっか、母が子供の私にカレーを作ってくれていたのも……ずっと前に誰かが、甘いカレーという『定番』を作ってくれたからだったんですね……」

 カレーを食べながら思う。
 母は働く女性の生き方を、兼業主婦生き方を必死で作っていった人。
 今では結婚して仕事を辞める方が、逆に珍しい世の中になった。
 定番は変わっていく。

 私だって社会人として、悔しいことだっていっぱいある。
 けれどーーお客様の求める「上の人」の『定番』じゃない私だからできることも、きっとある。
 ……私は、まだもう少し、自分の仕事を諦めたくない。
 今はお客さんにも上司にも、まだ自分では力不足だと思われるかもしれないけれど。

「あなたならできますよ。だってそのために、会社だって選んだのでしょう?」
「そうですね……」
「それに、見方を変えたら案外、今のままでも決して悪くないのかもしれませんよ?」
「……そうかも……しれませんね」

 すっきりとした甘口のルーと、歯応えのある野菜の味が残った具材。
 さらっとした煮込みでカレーの味の主張が薄いから、米の甘さが引き立つようだ。カレーの添え物としての野菜と米。ーー違う。カレーも野菜も米も、みんな美味しい。主張が強い。賑やかだ。
 それを「味が馴染んでいない」と思うか、一つ一つの味が引き立っていると感じるかどうか。私はーー

「……ごちそうさまでした」
「綺麗にありがとうございます」

 マスターはにこりと微笑んで、食後のホットティーを入れてくれる。
 私は小さなカップを両手で包んで飲みながら、味わうように目を閉じた。

 ーー頑張ろう。
 頑張ったからって報われるとは限らないけれど。少なくとも私の経験になる。

 落ち着いてくると、なんだかぐちゃぐちゃだった気持ちが冷静なってきた。女だから舐められて悔しい気持ちと、クレーマーをヒートアップさせすぎた失敗は違うし。
 そもそも、他にも見直すべきところはある。
 パートさんが怒らせすぎる前に、今度からはもう少しチェックを変えてみよう。
 私一人の試行錯誤ではどうしようもないことは、悩みすぎても仕方ない。
 美味しいご飯を食べて寝て、忘れようーー煮込みすぎたからって、美味しくなるとは限らないんだから。

「すみません、お勘定お願いします。」
「必要ありませんよ、今日はお代をいただいております」
「えっでも」
「ほら、レシートもここに」

 女の子が私にレシートを見せる。
 そこには確かに、カードで支払いしたレシートがあった。

「いつの間に払ってたっけ……」
「ご不安でしたら、カードの履歴をご覧ください。しっかり払っていただいていますから」

「そ、そうですか……ごちそうさまでした」

 私は今日も前回のように歩いて帰った。
 無事に家に帰り着いて、泥のように眠った。

第6話


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