見出し画像

猜疑心と白黒思考

 変人の変人ムーブの半分はそれを期待するあなたへのやさしさでできている 補語です

 さて、私は今まで、私は生身の人間が皆ステロタイプ上の京都人も真っ青な含意の怪物に見えているという事を何度も書いてきました 今回はこれが何から来ているのか考えてみます
 私は今まで、生身の人間が皆ステロタイプ上の京都人も真っ青な含意の怪物に見えている原因は発達特性上の問題、つまり先天的に空気が読めない状態でコミュニケーションを続けたことによる人間不信であると考えていました 勿論それもあると思います 私は中学まで癇癪を起こす以外のコミュニケーション法を知りませんでしたし、今もなお自分の考えに没頭しがちで、その間は人間の顔色というものが全くわからなくなるというのは事実です これでは子供の極限までファジーかつある所では異様に繊細、つまり幼稚で身勝手なコミュニケーションについていけるわけがない これは外部から与えられた情報に対しどういった反応をすればいいかに関する、つまり外面処理の問題です
 しかし、それだけではややもすると人間と話すことも難しい程の人間不信にまではならないでしょう この「空気が読めない」にはもう一つの要素、外部から与えられた情報をどう処理するか、つまり内部処理の問題があります この問題の最たるものは「私は思考の傾向として、人間関係をゼロかイチか、利か害かで判断しているところがある」という事でしょう 具体的に言うと「好き」でないなら「嫌い」で中間は存在しない、「愛」は利害の一致により成るもので、それ以外はあり得ない そう考えている所があります 私は創作をしますが、「愛」が絡む創作について考えているとしばしば「このシーンで借りができたから次のシーンには返さねば不均衡な印象を与えるだろう…」と考えているのに気づきますし、誰かが一方的に愛を与え続け、それが無批判に描かれるタイプの創作には著しい不安を感じます 関係かその人のどちらかが破綻しそうで…
 しかし、人間は意外と適当 感情はグラデーションであり、理由なく動くこともしばしば その事をこの1ビット仕様の認識で認知するとどうなるか 基本的に「ゼロとイチが併存している理不尽」と捉える事になります これにどう説明をつけようとしても「本当はゼロなのに嘘をついてイチだと言い張っている」くらいにしかなりません
 そうなると世の中の人間全員が嘘つきに見えてきますし、相手がうまく言語化できていない感情に関して「はっきり言え言わないならお前は嘘つきだ」と詰問してしまうこともしばしば 非常に良くありません また、自分の感情についてもグラデーションで認識できないため、グラデーションで認知できていればなんて事ないであろう感情の併存状態も甚大な自己矛盾のように感じられ、しばしば非常に苦しい思いをします 
 
 この白黒思考から生まれる猜疑心を直すためには「自分も他人も意外と適当にできている」という事を認識し、その事を受け入れねばならないと思います 相手が適当であるように、私にも適当である権利が与えられています もしかしたら相手は私に適当でなくある事を求めてくるかもしれませんが、私にはそれを拒否する自由があり、その逆もまた然りです あの時教室で押し付けられた道化の役割だって、拒否する権利が私にはあったのです 難しい話ではありましたが
 人間は矛盾するし自分の事が一番大事だしあまり自分のことも他人のことも深く考えていませんし、相手もそうであると思って接してきます むしろそれが前提とされているからこそ、お互いにとって不利益なことは避けましょうという利害関係に基づく均衡ある配慮が生まれる所すらあります 自己矛盾を許さず常に一貫し、かつ自分をよそに献身的で利他的な思想を持つ人間がこと学校教育でしょうか?そう言った場では称揚されますが、そういった状態では均衡かつ互いにとって無理のない利他は難しくなってくるでしょう 少なくとも私はそうなようです

 様々な強迫観念や猜疑心が私の中にはありますが、それらに一つ一つ現実的な着地点を見つけていきたいですね
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?