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梨泰院クラス「むごい人生よ、もう一度」

韓国ドラマ『梨泰院クラス』で「何度でもいい。むごい人生よ、もう一度」というフレーズが出てくる。そもそもは哲学者ニーチェの言葉らしい。
困難に出くわし、その渦中でもがきながらも、これは自分の糧にすべき経験だと実感したときにしか、こんなことは言えない。
人生のむごさを、嘆き狂い訴えるのではなく、淡々と捉えられている(そのように見える)人がいる。
松本サリン事件の被害者でありながら犯人として扱われてしまった河野さんは、実行犯の若者がばら撒いたサリンによって奥様が不自由になり入院してしまったにもかかわらず、犯人の出所後、一緒に釣りをするなど親交を持った。「同じシンコウでも、河野さんの親交のほうが若者を開いたんだろうな」と私の知人は言ったが、奇怪な信仰集団の愚かな行いが奇しくも本当の人の救い方を世に知らしめることになった。
苦難の中に何かを見出して味わい尽くせる人も、被害者でありながら加害者を許せる人も、おそらく私とは見ているものが違う。見ようとしているものが違うのかもしれない。
何が違うのか容易には分からないけれど、そうした人たちと同じ気持ちになってみたいとは望んでいる。「理解」ではなく「実感」したい。
だから、自分に訪れた小さな小さな苦しみの場面で、「むごい人生よ、もう一度」と言えるか? と自問する。「いやいや、そんなこと思えませんって」と秒で返ってくる。理不尽なことをされたときに「こいつを釣りに誘えるか?」と自問するけれど、問いかけ終わるよりも前に「なわけないだろ」という自分の声が聞こえてくる。
そうやって、何度も「この場面では、あの人たちの気持ちが実感できるか?」と自問を重ねていくと、ごくごくたまに、「むごいけれど学ばせてもらえたなあ」と思うときがあったり、本当に稀に「反論しても何も変わらないならば将来のために忍耐力と持久力を鍛えておこう」と思えるときが出てきた。
どうやら人の心理は“筋トレ”と同じで、小さな経験を重ねていくうちに変化するもののようだ。
ニーチェや河野さんが何を見ていたのか、見ようとしていたのか実感するには、到底至っていないが、以前のように「むごい人生には何の意味もない」とは思わなくなった。もちろん穏やかな人生のほうがいいけれど、そうではなくても貴重なオリジナルな人生であることは間違いない。
「一寸先は闇」という言い方は知っていたが、「一寸先は光」と言う人がいた。
何が違うのか、考えた。おそらく、こうだ。
前者は、いま光のある場所にいる人。後者は、いま闇の中にいる人。
後者は闇の中にいながら生きる希望を持っているから「一寸先は光」となる。
前者は未来に怯えながらいまを過ごしているから「一寸先は闇」と考える。大半は、こちらだ。
両者には、まったく違った未来が見えている。見えるものの違いが人の言動に表れる。
むごい人生の一寸先を見ようとする意志……。

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