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ピッツァマルゲリータ

男が目を覚ますと、まだ空中にいた。男は昨晩のことを思い出す。閉店の音楽、明るい男の声、「またのご来店を心よりお待ち申し上げております」の後のブチッという音…。男はもはや死んだようなものだ。そして生まれ変わったのだ。眼下には早朝の街中にふさわしい、ぽつぽつとした人通りと、快適そうな自動車たちが見える。「自分はこの後どうなるのだろう」と男は思う。いまのような心持ちであれば生きていけそうだとも思って、男は上着のポケットから手帳代わりのメモ帳を取り出す。そして今日の予定を確認する。男は笑う。カラスが男を見る。「どうでもいい人生にも予定はあるものだ」と男はつぶやく。男のメモ帳には、上司にいわれた命令が書き入れてある。どうでもいいと思っていた命令だったが、男はなんだかそれを懐かしく思う。ビルから身を投げなければやっていたはずの予定。それはただの定期的行動だったはずだ。しかし、と男は思う。それには意志が働いていたのだと気がついたのだ。そして、男は風を感じる。それとともにビルの中で会社員たちがあいさつをし合っているのが目に入る。人間の最期とはそのようなものだ。

爆発的な音に身をすくめると同時に目を閉じた一人の女が、反射的に音の方向を感じ取り、音の発生源を見たときには人間が人間でなくなっていた。女はそれに駆け寄る。そして「誰か救急車を呼んでください」とよくわからないことを叫ぶ。周りはザワザワするだけで人間の存在を忘れている。近くの壁には人間の液体部分が飛び散り、巻き込まれた数人の通行人が声にならない声を上げる。女は人間だった物に取りつき、救命措置を取る。そのうち警察が現れ、規制線を張る。女はなぜかパトカーに乗せられ、警察署で事情聴取を受ける。「やってません」というよくわからないいい分は聞き流される。数時間後、現場は元通りになり、騒がしい街に戻る。「たかが数人が死んだに過ぎない」とニュースを知ったサラリーマンが、昼食をスーツにこぼしたとき、女は牢屋に入れられる。そして誰かの口座に金が入る。

一台のパトカーが都会の交差点を曲がっていく。その後で飲んだ後らしい若者が、それを横目に見ながら千鳥足で横断歩道を渡る。その陰で犬の像がゴミだらけの姿で佇んでいる。そこを通り過ぎる一人のサラリーマンが、タバコを足で踏み消しながら「少し前ならここはこんなに汚れてなかった」と思い、それを煙たがりながら若い女がかわし歩いていく。十年後の世界とはいつでもそんなものだ。

余剰になった食べ物がゴミ箱に捨てられ、新しい食べ物が作られる。料理人がそう考えている間に、ホールでは客が文句をいい始め、大混乱になっている。その中の一人の客が出来立てのピッツァマルゲリータを口にしながら思い浮かんだのは、バジル泥棒をした一人の男のことだ。それは昨日このビルの上から飛び降りた男のことであり、皿に垂れたトマトの汁はその男が地面に落ちたときにそのビルに飛び散った血や体液のようだ。そして怒号が終幕を迎えたとき、ピッツァマルゲリータは客の腹に収まる。ある政治家が記者会見を開くのはそのときだ。

その政治家は税金を懐に入れる悪事を働いたといわれている。会場に集まる記者たちもそううわさしている。パイプ椅子が並べられるとともに、マイクテストが行われる。司会は声に張りがある、昨日早く寝た五十代初めのアナウンサーが行う。そして記者の一人はあの店で文句をいった一人だ。そういうストレス解消もあると雑談で大学生二人がいっていたのもそのときだ。その大学では学長が辞めさせられようとしており、学長の奥さんは件の政治家の大学時代のセフレであると、後ろから2番目の眼鏡をかけた記者がうわさしている。テレビの一場面とはそのようなものだ。

政治家の記者会見はうまくいく。それを観た視聴者は何も考えていないのだから。そうして一つの自殺のニュースは削られる。一人の無罪だった人の人生は終わりを迎える。「それが人生ってものさ」と、あるキャラクターが読まれたときも、そのときだったと一人の少年が覚えたとき、11時37分を時計が差す。そして、給食を作らなければならなかった、学校から2キロ離れているところに住んでいる一人の女が、コロナを発症しようとしているのを見ているのは遠くから通っている同僚で、会話は途切れない。その唾がカレーの中に入るのを校庭の木に留まったカラスがじっと見ている。そのカラスは数時間前にある男が人生の最期に見た鳥で、夕方になると件の政治家の家の庭に鬱蒼と立っている木に向かって帰る。ところで、バジル泥棒の上司はあの有名なアニメキャラクターと同じ名前だった。

バジル泥棒の上司はいうまでもなく悪党だと、その部下が12時ちょうどに昼食中にいう。12時を差した時計は日本製だと、頭の切れる刑事があるオフィスの応接室のソファでコーヒーを飲みながら思う。その後でその部屋にビシッとしたスーツを着こなした男が入ってくる。そのとき、刑事のコーヒーをいれてしまい仕事のなくなった若い女が、自分のデスクに極めてゆっくりと帰っていく。そのデスクの隣りには、お腹がボテッとした中年の女が忙しそうにパソコンを操作している。ただ、その文字は日本の今後には少しも関わりがない。

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